ー『吾妻鏡からー
【これから後は、単なる史料です。興味がある方はご利用ください】
※エクセルのデータを貼ったら、本文が下の行にはみ出してしまいました。スミマセン。
『全訳吾妻鏡』【新人物往来社】から、一品房昌寛関連の全条を抜粋
番号 呼称 地 名
1 治承5(1181)6月23日 昌寛 鎌倉
【本文】
戊戌 御亭の傍に、姫君の御方ならびに御厩を建てらる、かつは土用以前に作事を始められんがために、庄公別納の地を論ぜず、今明日の内に工匠を召し進ずべきの旨、安房国の在庁等の中に仰せ遣はさると云々。昌寛これを奉行す
2 治承5(1181)6月23日 昌寛 鎌倉
【本文】
己亥 小御所・御厩の地を曳かる。(大庭)景能・(梶原)景時・昌寛等これを奉行す。御家人等面々に匹夫を召し進ず。
3 治承5(1181) 7月3日 昌寛 鎌倉
【本文】
丁丑 若宮造作の事、その沙汰あり。しかるに鎌倉中において、然るべきの工匠なし。よって武蔵国浅草の大工字郷司(あざなごうし)を召し進ずべきの旨、御書をかの所の沙汰人等の中に下さる。昌寛これを奉行す。
4 養和2(1182) 5月26日 昌寛 鎌倉
【本文】
乙未 金剛寺僧徒が訴の事、昨日その沙汰あらんと擬するのところ、すでに秉燭に及ぶの上、昌寛障りを申して参らざるの間、今日沙汰を経られ、外題を成し下さると云々。
5 寿永3(1184) 1月8日 一品房 上総国一宮
【本文】
戊戌 上総国一宮の神主等申して云はく、故介広常存日の時、宿願ありて、甲一領を当宮の宝殿に納めたてまつると云々。武衛仰せ下されて曰はく、定めて子細ある事か。御使を下されてこれを召覧すべしと云々。よって今日、藤判官代(藤原邦通)ならびに一品房(昌寛)等を遣わされ、御甲二領を進ず。
6 元暦1(1184) 5月3日 一品房 伊勢両宮
【本文】
庚寅 武衛、両村(武蔵国飯倉御厨・安房国東條御厨)を二所大神宮(伊勢内宮外宮)に寄付したてまつる。(中略)一品房、奉行として、両通の御寄進状を遣わす。
7 元暦1(1184) 8月8日 一品房昌寛 鎌倉
【本文】
甲子 晴る。三河守範頼、平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。旗差(旗はこれを巻く)一人、弓袋一人、相並びて前行す。次に参州(紺村こむらごの直垂を著し、小具足を加え、栗毛の馬に駕る)、次に扈従の輩一千余騎、ならびに龍蹄、いはゆる、北条小四郎・足利蔵人義兼・武田兵衛尉有義・千葉介常胤・境平次常秀・三浦介義澄・男平六義村・八田四郎武者知家・同男太郎朝重・葛西三郎清重・長沼五郎宗政・結城七郎朝光・藤内所朝宗・比企藤四郎能員・阿曾沼四郎廣綱・和田太郎義盛・同三郎宗実・同四郎義胤・大多和次郎義成・安西三郎景益・同太郎明景・大河戸太郎廣行・同三郎・中條藤次家長・工藤一﨟祐経・同三郎祐茂・天野藤内遠景・小野寺太郎道綱・一品房昌寛・土佐房昌俊以下なり。武衛、御桟敷を稲瀬河の辺りに構えて見物せしめたまうと云々。
8 元暦2(1185) 1月26日 一品房昌寛 周防国
【本文】
庚戌 (臼杵)惟隆・(緒方)惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防国の住人、宇佐那木上七遠隆、兵糧米を献ず。これによって参州纜を解き、豊後国に渡ると云々。
同時に進み渡るの輩、
北条小四郎(義時)・足利蔵人義兼・小山兵衛尉朝政・同(長沼)五郎宗政・結城七郎朝光・武田兵衛尉有義・(中原)齋院次官親能・千葉介常胤・同平次常秀・下河辺庄司行平・同四郎政能・浅沼四郎廣縄・三浦介義澄・同平六義村・八田武者知家・同太郎朝重・葛西三郎清重・渋谷庄司重国・同二郎高重・比企藤内朝宗・比企藤四郎能員・和田小太郎義盛・同三郎宗実・同四郎義胤・大多和三郎義成・安西三郎景益・同太郎明景・大河戸太郎廣行・同三郎(行元)・中條藤次家長・加藤次景廉・工藤一﨟祐経・同(宇佐見)三郎祐茂・天野藤内遠景・一品房昌寛・土佐房昌俊・小野寺太郎道綱
9 元暦2(1185)2月1日 なし 芦屋の浦 (参考)
【本文】
乙卯 参州(範頼)豊後国に渡る。北条小四郎(義時)・下河辺庄司(行平)・渋谷庄司(重国)・品川三郎(清実)等、先登せしむ。しかるに今日、芦屋の浦において、(原田)太宰少弐種直・子息賀摩兵衛尉(種益)等、随兵を引きてこれに相逢い、挑み戦う。行平・重国等、廻り懸けてこれを射る。かの輩攻め戦うといえども、重国のために射られおわんぬ。行平、美気三郎敦種を誅すと云々。
10 文治1(1185) 11月8日 一品房昌寛 黄瀬河
【本文】
丁亥 大和守重弘・一品房昌寛等、使節として黄瀬河より上洛す。行家・義経等の事を鬱し申さるるところなり。また彼等すでに都を落つるの間、御上洛の儀を止め、今日鎌倉に帰らしめたまふと云々。
11 文治3(1187) 4月29 日 一品房 伊勢国
【本文】
(伊勢国地頭、勅使の駅家雑事を対悍す)頼朝は、伊勢国の地頭にきちんと年貢を納めるよう指導した。(前略) 一、勤仕せざる庄(中略) 安富名(一品房)
12 文治4(1188)5月17日 成勝寺執行昌寛 鎮西
【本文】
(宇都宮信房、喜界が嶋討伐の記事の後)、次に鎮西の庄は、成勝寺執行昌寛の眼代妨げをなすの間、昌寛が返状を召して下し給うといえども、なおもって静謐せず、濫行を企つるの趣、訴え申すと云々。よってかれこれ沙汰あり。大理(頼実)は寵臣たるによって、件の庄に限らず、地頭を止むべきの旨、綸旨を下さるるの間、関東いかでかなづみ申されんや。執行の眼代の事は、判を加えらるべし。ただし再三訴え申すべしといえども、関東の国において、自由の勘発をなすべからずの由、仰せらると云々。
13 文治5(1189) 3月22日 成勝寺執行法橋昌寛 京都
成勝寺執行法橋昌寛、使節として上洛す。御消息を師中納言(経房)に献ぜらる。これ泰衡が自由の請文、いささかも御許容限りにあらず。速やかに追討の宣旨を下さるべきの由、重ねて申さるるによってなり。またこのついでをもって、鶴岡の塔供養の願文、調え給わるべきの旨、内々所望したまう。同導師の事、然るべきの僧一人、計らい申し請けしめたまうべしてへり。
14 文治5 1189 4月18日 昌寛 京都
【本文】
(前略)また、昌寛注し申していわく、去月十九日に 按察大納言(朝方)ならびに侍従(葉室)朝経籠居す。
15 文治5(1189) 7月19日 一品房昌寛 鎌倉
【本文】
丁丑 巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんがために発向したまう。(中略)およそ鎌倉出の御勢一千騎なり。(71/74に一品房昌寛。次に常陸房昌明、尾藤太知平、金子小太郎高範(最後)
16 文治6(1190) 4月19日 成勝寺執行昌寛 近江・美濃
【本文】
壬寅(造大神宮の役夫工米、地頭の未済を成敗す)近江国報恩寺 同余田 究済するの由、成勝寺執行法橋昌寛これを申す。
美濃国 蜂谷庄 成勝寺執行昌寛が陳状、これを相副う。このほか所々の書抄注文は、下文に相副ふるところなり。
17 文治6(1190) 4月19日 成勝寺執行 越前
【本文】
越前国 鳥羽 得光 丹生北 春近 成勝寺執行、使いに相逢いて究済しをはるの由これを申す。
18 建久1(1190)7月12日 法橋昌寛 京都
甲子 法橋昌寛使節として上洛す。これ来十月に御上洛あるべきの間、六波羅において、當時御亭を新造せらるべし。よって奉行のためなりと云々。
19 建久1(1190) 9月15日 法橋昌寛 京都
【本文】
丙寅 来月御上洛あるべきによって、御出立の事等沙汰を経らる。今年は諸国旱水共に相浸し、民戸安きことなし。よって延引せしめたまふべきかの由、いささか御猶豫ありといへども、兼日にすでに仙洞にに申されをはんぬ。今においては御逗留に及ぶべからずと云々。御路次の間の事、諸事に奉行人を定めらる。(二階堂)行政、(三善)善信、(平)盛時、(三善)康清等これを沙汰すと云々。かの目録は、雑色常清・成里に下さると云々。
御京上の間の奉行の事。
一 貢金以下の進物の事 (二階堂)民部丞行政 法橋昌寛 (後略)
20 建久1(1190) 9月20日 昌寛 京都
【本文】
京都御地の事、故池大納言(平頼盛)の旧跡に治定すと云々。作事を始めらるるの由、昌寛これを申すと云々。
21 建久1(1190)11月9日 昌寛 京都
【本文】
(吉田経房への返状)
この状六波羅に到着し、御請文を進ぜらる。昌寛これを書すと云々。その状に云はく、権大納言を拝任する事、恐悦申し候。ただし関東に候ずるの時、任官の事仰せ下され候といへども、存ずる旨候ひて辞退申し候ひをはんぬ。しかるに今仰せ下され候の条、面目極まりなく候といへども、恐れながら辞退申すところに候なり。辞し申すの旨、納れ候はんをもって、朝恩深しと存ずべく候。兼ねてはまた勅授を聴さるべき事、畏まり承り候ひをはんぬ。この旨をもって洩らし達せしめたまふべく候。頼朝恐惶謹言。 十一月 追啓 仰せ下され候の後、辞し申し候の絛、まほもつて恐れ思ひ候。勅授の事、重々畏まり申し候なり。この旨をもつて然るべきのやうに披露せしめたまふべく候、重ねて恐惶謹言。
22 建久1(1190) 12月4日 昌寛 京都
【本文】
甲申 前右大将家(頼朝)、絹布等をもつて、京中然るべき神社仏寺に施入せしめたまふと云々。(中原)親能・(二階堂)行政・昌寛等これを奉行す。
23 建久2(1191) 3月4日 昌寛法橋 鎌倉
【本文】
壬子 陰る。南風烈し。丑の剋、小町大路の辺失火す。江間殿(義時)・相模守(大内惟義)・村上判官代(元国)・比企右衛門尉(能員)・同藤内(朝宗)・佐々木三郎(盛綱)・昌寛(法橋)・新田四郎(忠常)・工藤小次郎(行光)・佐貫四郎(廣綱)己下の人屋数十宇焼亡す。餘炎飛ぶが如くにして鶴岡の馬場本の塔婆に移る。この間幕府同じく災す。すなわちまた若宮の神殿・廻廊・経所等ことごとくもって灰燼と化す。(後略)
24 建久2(1191)10月10日 成勝寺執行昌寛法橋 京都
【本文】
乙酉 成勝寺執行昌寛法橋、使節として上洛す。これ法住寺殿修造の間、前掃部頭(中原)親能・大夫判官(大江)廣元・昌寛三人の行事を差し置かるるなり。しかるに昌寛、去ぬる比、召によって帰参すといえども、その功を終えんがために、重ねてもって上洛すと云々。
25 建久3(1192)4月11日 法橋昌寛 鎌倉
【本文】
壬子若公(貞暁)(七歳、御母は常陸入道の姉)の乳母の事、今日野三刑部丞成綱・法橋昌寛・大和守重弘等に仰せられる。しかるに面々に固辞するの間、(大江)長門江太景国に仰せられおわんぬ。よって来月ひそかに相具したてまつり、上洛すべきの由定めらると云々。
他人の固辞するは御台所の御嫉妬甚だしきの間、かの御気色を怖畏するが故なりと云々。この景国は、鎮守府将軍(藤原)利仁の四世、(藤原)修理少進景通(伊予守源頼義朝臣、貞任等を攻むる時、七騎武者の随一なり。)の三代の孫なり。父景遠は大学頭大江通国の猶子となり、藤氏を大江に改むと云々。
26 建久4(1193)3月13日 法橋昌寛 鎌倉
【本文】
庚辰 旧院の(後白河)の御一廻の忌辰を迎え、御仏事を修せらる。千僧供養なり。御布施は口別に白布二端、藍摺一端、麞牙(しょうが)一袋なり。(大内)武蔵守義信行事たり。その儀、宿老の僧十人を定められ、頭となすところなり。よっておのおの百僧を相具し、便宜の堂上を点じ、饗禄等を沙汰せんがために、百口ごとに二人の奉行を相副えらると云々。
一方の頭(百僧これに従う) 若宮別当法眼 奉行 大和守重廣(三善)大夫属入道善信
一方の頭(百僧これに従う) 法橋行慈 奉行 (二階堂)主計允行政 堀藤太
一方の頭(百僧これに従う) 法眼慈仁 奉行 (藤原)筑後守俊兼 廣田次郎(邦房)
一方の頭(百僧これに従う) 法橋厳耀 奉行 法橋昌寛 (中原)中四郎惟重 (後略)
27 建久6(1195) 1月15日 法橋昌寛 京都
辛丑 法橋昌寛使節として上洛す。これ将軍家、南都東大寺供養御結縁のために御京上あるべきによって、六波羅の御亭に修理を加うべきが故なり。
28 建久6(1195) 3月11日 昌寛 東大寺
丙申 将軍家、馬千疋を東大寺に施入せしめたまう。(和田)義盛・(梶原)景時・成尋・昌寛等これを奉行す。およそ御奉加は、八木一万石、黄金
コメントを残す