【はじめに】
2年前、前号の「随筆風 一品房昌寛」というエッセイらしきものを書いてみた。いま読んでも、なかなかいい話だと思うのだが(アツカマシイ)、実は内心忸怩たるものがある。以下はその懺悔とツッコミである。
【芦屋法輪寺経筒銘文】
妙法蓮華経全部八巻
奉為関東御曹司千寿御前
相当一百箇日忌景御為滅
罪生善頓証菩提一日頓写供養如右
徳治三年(一三〇八)正月甘二日
導師 遍照金剛澄空
勧進 遍照金剛皇聖
母儀菩薩戒尼遍照金剛清浄覚 敬白
1.なぜ、93年後に百日供養?
前号で述べた通り、芦屋の法輪寺で発見された経筒には、鎌倉時代末期の徳治3年(1308)の銘文で「関東御曹司千寿御前の百日忌の供養」と刻されているのだが、第二代鎌倉将軍源頼家の子・栄実が殺されたのは建保2年(1215)である。なぜ百日忌の供養を93年後に行うのだろうか。
芦屋町はじめ近隣の自治体史もこのことには苦慮したらしく、遠忌の百回忌法要など苦しい理由づけがなされている。
2.御曹司は「おんぞうし」ではなく「みぞうし」
結論から言えば、「関東御曹司千寿御前=第二代将軍源頼家の子息栄実」が供養されたとするのは時代的に困難である。しかし「御曹司」を「おんぞうし」ではなく「みぞうし」とよめば、供養されたのは第七代鎌倉将軍久明親王の正室に仕えた「千寿御前」となる。
「みぞうし」とは、本来皇后・皇太后・太皇太后に関する事務を取り扱う中務省の中宮職の庁舎を指す。中宮職の管轄なので「職」の字がついて「職御曹司(しきのみぞうし)」と呼ばれることが多い。「枕草子」で一条天皇が出家した中宮定子を迎えた場所として有名である。
ここでは鎌倉将軍家正室のための役所のことを「鎌倉御曹司(かまくらのみぞうし)」と呼び、おそらくそこに仕えていたのが「千寿御前」なのだろう。残念ながら久明親王の近辺に「千寿御前」と呼ばれる人物を見出すことはできなかったが、徳治3年(1308)は鎌倉将軍家にとって重要な年である。
3.征夷大将軍久明親王の辞任
同年6月25日、第七代鎌倉将軍久明親王が突然辞任して帰京、8月に子の守邦親王が第八代将軍職を継いだ。執権北条貞時に廃されて送還されたともいうが、その後も久明は京で優雅な生活を送ったことから、摂家将軍や親王将軍の通例として既定の将軍交代だったと考えられる。だが、すでに執権北条貞時は嘉元の乱(1305)の失敗により政治への意欲を失い、酒浸りの生活を続けていた。久明親王の将軍辞任と送還は、御内人や北条庶家からなる寄合衆によって実行されたのであろう。
銘文の正月22日は辞任前である。百日忌なら徳治2年(1307)10月に千寿御前は鎌倉で亡くなったことになる。なお、「御前」は高貴な女性に用いられることの多い尊称なので、千寿御前は将軍正室の側近くに仕えた高級女官であろう。ちなみに久明の正室、前将軍惟康親王の娘・中御所は、前年の嘉元4年(1306)7月に流産により死去している。久明にとっては、連年近しい者と死別した後の将軍辞任であったことになる。
では経筒を奉納した清浄覚とは何者なのか、実際に芦屋に来たのか、あるいは経筒だけ送付されたのか今のところ不明である。まして経筒と山鹿氏との関連を示すものは何もない。
ただ、辞任する直前の5月、久明親王から花園天皇に進物を贈っているのは意味深である。あるいは既に決まっている辞任と帰京に向けての挨拶だったのか。であれば、正月22日の百日供養も、鎌倉で世話になった、あるいはこれから京で世話になる寺への、寄進の名目あるいは成果だったのかもしれない。
銘文には導師・勧進・母儀とも「遍照金剛」が冠せられているので、真言宗の儀式で納経されたのだろう。法輪寺のサイトにも遠賀郡誌からの引用として「初めは真言宗なりし」と述べられている(現在は臨済宗)。たしかに久明親王は醍醐寺座主親玄(徳治2年は在鎌倉のまま東寺長者・大僧正)を護持僧として鎌倉で親しく交わっているし、和歌の師冷泉為相(後に義父)は泉涌寺末の浄光明寺の隣に屋敷を構え墓所も同寺内に存するので、真言宗とは浅からぬ縁があったようである。
ただし、当時は兼学(複数の宗派を学ぶこと)が一般的だったので、当時の法輪寺が真言宗専修の寺であったかは疑問がある。ちなみに醍醐寺は「三輪・真言」の顕密兼学、泉涌寺は「蜜(天台・真言)、禅、律、浄」の四宗兼学で、開祖の俊芿(しゅんじょう)が12年間に及ぶ宋での遊学を終えて帰国したのを迎えたのは、建仁寺(禅・天台・真言の三宗兼学)を建立した栄西だった。
4.久明親王と歌会
幕府の象徴将軍として、平禅門の乱・嘉元の乱など幕府動乱の中にあってもほとんど実績を残すことはなかったが、藤原定家の孫、冷泉為相に師事して「新後撰和歌集」・「玉葉和歌集」などに計22首の入集を果たし、歌人として名声を博した。
久明親王主宰の歌会には、執権貞時、連署政村をはじめ、錚々たる幕府要人が参加した。久明親王は歌会を通して幕府の要人とも個人的な関係を結んでいたといわれ、それが後の穏やかな京での生活に繋がっていく。
いずれにしろ久明親王は、悠々と平和裡に鎌倉を離れて京へ戻った。多くの名歌を残し、歴史書『増鏡』の編纂にも関わったという。鎌倉幕府との良好な関係は終生続き、1328年(嘉暦3年)に久明親王が死去した際は、鎌倉に早馬の知らせが届くと、その後50日間にわたって政務の裁定が停止され、翌年正月には百箇日法要が鎌倉で盛大に行われている。
歴代鎌倉将軍の血なまぐさい生涯の中にあって、唯一ホッとできる久明の引き際であった。法輪寺経筒はある意味見事な人生のモニュメントである。
付:鎌倉将軍の最後の姿
2代 源頼家(在位1199~1203)
1203年、後見役であった比企能員をはじめとする比企一族が北条氏によって滅ぼされると、実弟の実朝に将軍職をとって代わられ、21歳で伊豆で誅殺される。
3代 源実朝(同1202~1219)
鶴岡八幡宮で頼家の子・公暁に暗殺され、26歳で死没。首級は行方不明。これをもって、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶。
4代 藤原(九条)頼経(同1226~1244)
摂家将軍。反・執権勢力が頼経に接近し勢力を強めたことで北条氏から追放され、将軍職を嫡子頼嗣に譲った。その後も謀叛を疑われ、帰京4年後に赤痢で没する。
5代 藤原(九条)頼嗣(同1244~1252)
4代頼経嫡男。6歳で父から将軍位を譲られるが、九条家の政治勢力拡大を嫌った4代執権の北条経時によって14歳で追放される。18歳で父とともに赤痢で死没。
6代将軍 宗尊親王(同1252~1266)
皇族初の征夷大将軍。九条道家の政治介入を嫌った執権北条時頼に迎えられたが、政治的権限はなかった。妻の不倫と謀反の嫌疑で解任され、帰京後、後嵯峨帝にも義絶された。
7代将軍 惟康親王(同1266~1289)
6代・宗尊親王の嫡男。3歳で将軍就任。26歳で解任され京に戻された。「とはずがたり」によれば罪人同様の追放で、人々は「将軍、都へ流され給う」と評したという。
8代 久明親王(同1289~1308)
後深草天皇皇子。従兄にあたる惟康親王が京に送還されたことにより、征夷大将軍に就任。政治的力はなかったが鎌倉歌壇の中心的存在。北条氏に平穏に解任され帰京した。
9代将軍 守邦親王(同1308~1333)
久明親王の子。父が解任され、8歳で将軍就任。在位24年で歴代将軍中最長。新田義貞の攻撃により鎌倉陥落後、将軍職を辞して出家、3ヶ月後に薨去したという。
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