ー 「麻生文書」を切り口に北九州の中世を想像する ー

筑前麻生氏とは
平家滅亡から豊臣秀吉の九州平定まで、北九州の西部は国衆の麻生氏が治めていました。麻生氏は関東から下向した宇都宮系山鹿氏の庶家で、鎌倉北条氏の被官として姿を現し、南北朝・室町時代には幕府の奉公衆として、名実ともに最盛期を迎えます。
しかし、戦国期になると一族内での抗争や大内・毛利・大友・島津の角逐に巻き込まれて勢力を失いました。
※ 地図は、中世の海岸線を推定
こんな記事を掲載しています(予定)
ごあいさつ
令和4年、福岡市・北九州市で38年間勤めた公立中学校を退職し八幡郷土史会に入会しました。中世文学が卒論のテーマだったことと、自分の家の近所がどんなところだったのかが知りたくて、北九州市西部の中世史を余生の楽しみとしました。
北九州市史をめくってみると、中世の北九州市の筑前部には「麻生氏」という海賊っぽい国衆がいて、長沼賢海氏・竹中岩夫氏・川添昭二氏・有川宣博氏らの論文があることがわかりました。けれど麻生氏の通史は管見のかぎりありません。特に鎌倉時代は、安堵状が三通残るのみで、先学の方々もさじを投げざるを得ない状況です。
なければ自分で書くしかない。このサイトは麻生氏の通史を書くための勉強の過程でわかったこと(麻生氏の周辺の状況)を、その時々に書きまとめた、いわばメモのようなものです。史料がないのですから憶測するしかありません。学者さんは責任ある立場ですからそんなことはできないでしょうが、私のような素人なら許されるかと思い、厚かましく文字を綴っています。ただ、以上の事情から歴史学というより、文学の人物像研究に近いものであることをご理解ください。
コピペは自由です。夏休みの自由学習などにご利用いただければ幸いです。

多くの方々にアクセスいただいた「orio3813.com 国衆と歩く中世の北九州」は、先々週(2025年6月末)、何者かによってハッキングされ乗っ取られました。
汚染されていた場合、皆様にご迷惑をおかけする可能性もありましたので、泣く泣くすべてのデータとサイトを削除しました(61個のブログ、50万字以上あったんですよー(×_×))。
この新サイト(サーバも新しくしましたのでご安心ください)では、まずその復元を目指します。手もとの一太郎の原稿をブログにするには、しばらく時間がかかりそうです。申し訳ありませんが気長にお待ちください。
河 島 直 樹