18 高倉村

福岡県地理全誌巻之四十二 (第五大区) 遠賀郡之四

(八小区二村之内)高倉(たかくら)村

(西南)福岡県庁道程十里(山田越。九里二四町)

1.彊域

彊域 東、野間村(十九町)。南、上畑村(二十六町余)。宗像郡平等寺村一里二十五町。西、同郡山田村(一里余)。同郡池田村(二里)。北、手野村(一里)。三吉村(二十八町)。吉木村(十五町余)に接し、人家は、本村(六十三戸)、裏田(ウラタ:三戸)、金山(カナヤマ:二戸)、金屎(カナクソ:二戸)百合野(ユリノ:九戸)、大山口(オオヤマグチ:九戸)六所にあり。和名抄に垣前卿(ママ)あり。此の辺を云う。(高倉神社旧記に垣前庄。嘉元現作田数諸済物小註文と見えたり。伊藤常足曰く、垣前郷は高倉神社の辺にはあらじ、この辺は内浦郷なるべし。又は内浦郷の半を此の地は垣前に入りしにてもあるべし)近世は岡庄とも云えり。慶長の頃までは吉木村の内なりしが、後に別れたり。村位、中。地形、山間に在りて高低あり。運送の便、中(宗像郡赤間駅二里)。土質、東、赤土。南西北、黒真土、小礫交じり。乾地。地味、中。田は中晩稲、麦、菜種。畑は、麦、菜種等を作る。この村、山深く、林茂り、川流潔し。土地肥饒。魚塩薪材等、乏しからず。好村落なり。土産、生蝋、紙。

2.戸口田圃租税山林

○戸口

一 戸数 百三戸

  一 僧   一戸

  一 平民 百二戸

一 口数 五百十八口

     内

  一 男 二百七十六 口

  一  女 二百四十二  口

  (職分)医術(男 一人)。筆学(男 一人)。農(男 百四十八人、女 百四十六人)。工(男 一人)。雑業(女 二人)。雇人(男 七人、女 六人)

○田圃

一 田畑段別   五十四町二畝二十五歩五厘

     此石高  五百四十八石三升三合

     内

一 田段別     四十八町八畝十歩五厘

    此石高  五百五石四斗二升七合二勺

一 畑段別     八町五畝二歩五厘

    此石高   四十二石六斗五升八合

一 大縄田畑段別   五町八段九畝十二歩五厘

○租税

一 米大豆     二百九十二石九升七合     正租

  此代金     八百一円五十二銭七厘

           内

  一 米    二百七十一石九斗三升一合

    此代金  七百二十二円三十一銭九厘

  一 大豆      二十石一斗六升六合

    此代金    七十九円二十銭八厘

一 米大豆       八石七斗六升三合                     雜税

  此代金       二十四円四銭六厘

        内

  一 口米  八石一斗五升八合

    此代金 二十一円六十七銭

  一 口大豆   六斗五合

    此代金   二円三十七銭六厘

一 金       三円八十七銭三厘

○山林

一 山段別 百三十九町四段一畝二十歩

       内

  一 五十八町一段歩           官林

  一 六十一町三段三畝十歩        草山

  一 十二町五畝歩            元証文山

    一 三町五段歩             元預山

  一 一町九段三畝十歩          社山

  一 二町五段歩             寺山

3.橋梁池塘牛馬山岳岩石・河渠

○橋梁

一 板橋一所(乳垂川筋 宮ノ前 民費) 長四間 幅三尺

一 同 一所(同 川筋 中村  同上) 同上

一 土橋一所(同 川筋 宮ノ前 官費) 長三間三尺二寸 幅一間一尺三寸

一 同 一所(百合野川筋 落合 同上) 長二間三尺二寸 幅一間

一 同 一所(同 邉川筋 裏ノ谷 同上)長二間     幅五尺

一 同 一所(百合野川筋 金山 同上) 長一間     幅六尺

一 同 一所(同 大山口川筋 大山 同上)長二間一尺九寸 幅一間

一 同 一所(同 同 川筋 百合野 同上)長二間三尺二寸 幅一間

○池塘

一 池十一所

       内

一 一所(浦ノ谷 官費)     水面四反歩 水掛田三町一反歩

一 一所(持 堀 同上)     水面二反歩 水掛田三町二反歩

   以上二所寛文二年(1662)壬寅築立

一 一所(立田 同上)      水面一反二畝歩 水掛田二町一反歩

一 一所(花木 同上)      水面一反五畝歩 水掛田三町八畝歩

   以上二所寛文五年(1665)乙巳築立

一  一所(依田 同上)      水面四反歩 水掛田五町六段六畝歩

   延宝二年(1674)甲申築立

一 一所(金屑 同上)      水面八畝二十九歩 水掛田一町八反歩

   天和四年(1684)癸亥築立

一 一所(裏田 同上)      水面一段歩 水掛田一町三反歩

       寛延二年(1749)巳己築立

一  一所(大膳塚 同上)     水面二段三畝歩 水掛田三町一反歩

   慶応三年(1867)丁卯築立

一 一所(山ノ峠 同上)     水面一反四畝歩 水掛田一町六反二畝歩

一 一所(鍋倉 下池 民費)   水面二畝歩 水掛田一反二畝十歩

一 一所(鍋倉 上池 同上)   水面三畝歩 水掛田四反二十七歩

  以上三所築立年不詳

○牛馬

一 牛 七十七頭

     内

  一 牡 七十二 頭

  一  牝   五 頭

一 馬   三十三 頭

  一 牡  十一 頭

  一  牝 二十二 頭

○山岳

   足白(あしじろ)山 

 村の西南にあり(大山ともいう)。西南、宗像郡池田山田二村(宗像郡にては孔大寺山なり)。北、手野村に界えり。山麓大山口より、絶頂へ十三町。険阻にして雑木茂れり。東麓に大山口の人家あり。その東南の山中に百合野あり。大山口と百合野の間に宗像郡山田に越える道あり。百合野越と云う。嶺に地蔵有るに依りて地蔵越とも云う。里民の説に、この山上より八足の鹿、出し事あり。その鹿の足、白かりしに依りて、足白山と名づくお云えり。

 『書紀』「天智天皇十年夏四月、筑紫言八足之鹿、生而即死」とあり。此なるべし。(青柳種信が説に「古書に大山安楽寺など云える大山は此所にありし寺にてもあらんか。彼の山内に聊か物の遺址もあり」と云えり。今詳らかならず)

    高津(たかつ)峰 

 村の東南にあり。山麓、山神より絶頂へ五町。険阻。茅立なり。山上少しの平地あり。昔、大倉主、菟夫羅姫二神、天降の地と云う(下に説あり)。近世、碑石(方五寸、髙五尺)を立て、高蔵大明神御影向地と鐫(ほ)りたり。旱魃の時は村民暮夜より暁に至り、此の山上にて鼓を鳴らし雨を乞うに験ありと云う。

〇岩石

   破石(われいし)

大山口の入口にあり。二箇あり。一は髙一間半、横一間半。一は髙二尺、横一間ばかり。

〇河渠

   汐入川

水源、村の西、孔大寺山・金山の水、百合野にて会流し、村中を過ぎ、吉木村を経て、海に入る(上流は乳垂川、又、高倉川とも云う)。水源より流末まで総計一里十四町十七間、。村内長千三百二十七間。幅二間。平水五寸。清水にて吉木村界より流れ緩し。同村往還橋辺りまで汐上る。

板橋二所(宮ノ前・中村)。土橋一所(宮ノ前)。

4.神社・仏寺・古蹟・墳墓・人物

○ 神社

(第五大区郷社兼高倉村社)

  高倉神社(本殿、三間四面。拝殿、横四間入三間。石鳥居二基。社地、東西四十七間、南北百二間。氏子九十八戸)

  • 筆者注、この後、長文で抽象的で、難解な文が続きます。でもご心配なく!  全文コピーしてAIに貼り付けて、「現代語訳してください」といったら、即座に訳してくれます(九割ぐらいは正しいです)。本文のところどころに、AIで訳した現代語訳を貼って青字にしておきます。時間がない人は青い字をどうぞ。

本村の南山麓にありて、神殿は西に向かえり。芦屋村岡湊神社の本社。此所の地主神にて、従前、遠賀郡二十二村の総社なり(二十二村は、高倉・吉木・三吉・手野・内浦・原・波津・松原・新松原・黒山・上畑・野間・海老津・山田・糠塚・尾﨑・戸切・虫生津・別府・若松・鬼津・芦屋なり)。

 明治五年壬申、当郡の郷社とせらる。祭神、大倉主命・菟夫羅姫命。相殿、天照大神。祭日、九月九日。社記に、「仲哀天皇八年、熊襲叛き奉りしかば、天皇、皇后と共に筑紫に幸して此を征伐し玉う。岡水門に至りて御船進まざりしかば、岡縣主熊鰐を召してその由を問わせ玉いけるに、「この浦の口に男女の二神おわします。男神を大倉主と云う。女神をば菟夫羅姫と云う。必ず此の神の心ならん」と申す(此の二神は水神にて大水神の子なりと。大神宮儀式帳に記せり)。天皇、此を聞こし召し、挟杪者(かじとり)倭国莵田人伊賀彦を祝として祭らしめ玉いしかば、即ち御船進むことを得て。岡津に至り玉う。

かくて天皇は皇后と共に謀をめぐらし、岡津にしばらくとどまりおわしまして、諸軍に命じ兵器を鍛錬し弓矢を調させ玉う。よってその所を名づけて矢矧と云う(芦屋より一里ばかり西のかた海辺にあり)。

ここにおいて熊鰐、皇后に奏しけるは、「この縣に高津峯とて、三面宝珠の山あり(当社の後ろの山なり)。この峰には群神たち天降りおわします。是、国家鎮護の御為なり。いそぎ彼の峯によぢのぼらせ玉い、朝敵誅伐の事をも祈らせ玉へかし」と申しければ、皇后悦び玉い、此山によぢ上り、熊襲誅伐のことを祈らせ玉い、手ずから五株の霊樹を此地に挿して、神誓のしるしとし玉う。程なく岡津に帰らせ玉い、天皇と共に謀り、「此所は国の端なればしばらく皇居と成すべき所にあらず。香椎宮に移らせ玉うべし」とて、軍立ちし玉う。

実も(げにも=なるほど)、このたび西国に下らせ玉うは、熊襲征伐の為なれば、敵国、猶遠しといえども、専ら行伍を正しくし、号令を厳にし玉う。よって先ず御旗をはらせ玉いし所を、旗の浦と云う。今訛りて初浦といえり。鉾をささせ玉いし所を鉾野浦と云う。天の鏑矢を立て置かせ玉いし所を、天野海辺と云う。終に此所に宿陣せさせ玉いしが、海風烈しかりしをいとい、かりに千本の松枝を指せ玉いしに、後にその松生い茂りしかば、その所を名付けて垣崎松原と云う(又、岡の松原とも云う。今俗に吉木松原と云う)。

かくて程なく香椎宮に入らせ玉い、天皇崩じ玉いければ、皇后、天皇に代わり熊襲を討ち平らげ、新羅を伐ち従え、その年の十二月に御帰朝あり。この度祈り祭り玉いし神々に報賽ありて、各々その鎮まりましまさんとある所に祝祭り玉う。中にも大倉主・菟夫羅姫の二神は水神にて仲哀のみかど筑紫に下り玉うとき神異あり。又、皇后三韓をうたせ玉うとき、冥助浅からざりしかば、摂政二年壬午の五月午日、始めて勅を下し、此の高倉邑に御社をたてて祭らしめ玉う。此ゆえ今に至るまで午の日を用い、祭日とはし奉るなり。

かく神后の崇めとうとみ玉いし御神なれば、その後世々帝も尊崇他に超えさせ玉い、遠賀縣にして許多の神田をよせられ、年中三度の大祭の時は在庁の官人をして其事を監察せしめ玉い、武家摂政の後は検使来たりて祭りを助けるとかや。相殿に天照大神をいわい祭り奉れる故、今は三座の御神鎮座し玉う。

天智天皇の御時、新羅国の沙門道尭といえるもの、尾張国熱田宮に祝れまします草薙剣をぬすみ取りて逃げんとす。初めの度は熱田社の扉を出る時、村雲覆い、これをとどむ。その後、又ぬすみ取りて逃げ行きしが、近江国に至りて村雲立ち覆いうばえり。この時道尭、彼の剣を取り返さんと西より東へ追行しかども取り返す事あたわず。その追いそめし所を名付け、「おいそ」と云う。老曽の森ある所これなり。又、盗み取りて筑紫博多まで下りしが、又取り返されぬ。この時都より官使来たりて此の御剣を受け取りまいる間、清浄の地に置くべしと議せられしに、当社は古来の霊場にて、ことに堅固の地なればとて、神殿の内に籠置奉りける。ほどなく勅使来たりてこれを守護し、又、本の宮に納め奉る。天皇、これをきこしめし、亦、彼の道尭がごとき盗人ありて取り汚す事もやあらんと、こころうくおぼしめし、或る鍛工に命じ、彼の剣と同じようなる剣を七つ作らせ玉い、別殿を立て、八の剣を納め玉う。八剣の宮これなり(神道はふかく八の数を尊むいわれあり。故に七の剣を作り添えて八剣の宮という)。此の時より熱田の宮には日本武尊を本社に祭り玉う。かつ当社にしばらく彼の剣を籠め置き、後には八剣の号あるにより、当社をも俗説には八剣宮と申し奉るなりと云う。

(青柳種信云く「社記に云く、往古、面足尊オモダルノミコト・惶根尊カシキネノミコトの男女、高津峰に降臨あり。白鳳年中に至りて、今の本社の地に遷り奉りて八剣大明神と崇敬し奉ると云う。当社を八剣大明神と云う事、由あるか。又、大倉主・菟夫羅姫と云う事、此所の記録等に載する事なし。古き記録は乱世に焼失して伝わらざる故、社実不詳。今、本社の左右に陰御前・陽御前とて二社あり。是上に云う男女二神を祭るなるべし。大倉主・菟夫羅姫の二神は昔より此地に鎮座の神なるべし。古社記の文、大倉主・菟夫羅姫の二神を面足尊・惶根尊に混合したる伝えなり。」心得難し。必ずこれは別社なるべし。伊藤常足曰く「『高倉縁起』・『和漢三才図会』・『和尓雅』等に祭神大倉主・菟夫羅姫を祭れる由云うは、中頃に作れる当社縁起の説にて例の日本紀に牽彊したるものなり。古き物にはおさおさ見えざる事なり。」平田篤胤云く「『姓氏録』に、河内国に尾張連・吹田連・身人部連・五百木部連・若犬養丹比連など火明命ホアカリノミコトの裔の氏人等多く住めり。又、大縣郡・渋川郡に、賀義など見えたる郷名は悉く由有りておぼゆるに就きて按ずるに『神名式』に高安郡に天照大神、高座神に座すとある社も、疑いなく火明命・香山命カゴヤマノミコトを祀れるならんと知られたり。其れは『旧事記』に天照国照彦火明命アマテルクニテルヒコホアカリノミコトと櫛玉饒速日命クシタマニギハヤヒノミコトとを一神とし、香山命と高倉下タカクラジとを一神としたるは附会たるならん」と、師は云われたれど、孰く思えば、此は信に疑いなき事なれば、此の社は火明命と香山命(又の名は高倉下命)と二座を斎いたるに違いあるまじくこそ。猶、思い合わすべき事は、陽成天皇元応元年十二月の下に、筑前国正六位上天照神、従五位下と見えたる神社は、貝原氏の『和爾雅』に遠賀郡高倉村と云うにあり。相殿神一座は天照大神にて神功皇后の祭り玉える社の由云えり。此は天照神と云うにつきて、大御神ならんと思いて天照大神と云めれど、決して日の大御神にはおわさず、火明命なるべく覚ゆれば、彼の大后の御世に此所にて鏡を作らせ玉えることなどありて、祀り玉いけんと思い合わせらるればなり。宮永保親云く「『筑前早鑑』に高倉八剣大明神と云う社の末社二十五社ありと記せり。同社洪鐘銘にも八剣大明神と記せり。『古語拾遺』に「崇神天皇更に斎部氏をして石凝姥神裔・天目一箇神裔の二氏を率いさせ、更に鏡を鋳、剣を造らしむ」とあるを思えば、此の神を祭りて剣大明神と云うも由あり。火明命の裔、此の国に在りて、彼の史伝の説の如く、大后の御代、太刀・鏡など故有りて造らせ玉い、火明命を祭りて剣社とも云い、又、高倉下の名の二字を取りて社号としたるか。後、村名ともなれるものなるべし。されば陽成天皇の元慶元年に神位を授けて崇め玉いし天照神は此社なる事知られたり。従前遠賀川より西二十余村は此社の氏子にして、中古、時の領主より社嶺を寄附して尊信ありしかば、宮所広く樹立物ふりてこの邉りにては大社なり。然れども菟夫羅姫・大倉主神を祭りてその社とするは貝原の説より発りて『書紀』の此の浦口に有る神と記されたる本文に符わず。高倉社の地は岡湊を去る事、道程三里を隔てたる山中なり。大倉主神は『書紀』・『類聚』・『国史』等に出たれども、神系の出処を知るに由なければ不詳。されども、是は大国主神の一名なるべし。〈天照大神の御名、仲哀記に天疎向津媛神アマサカルムカツヒメカミとありて神代巻には無きが如し。〉さ思う由は、此の神の御子に大倉媛命云う神、坐せり。『旧事記』に下照媛命シモテルヒメノミコト、倭国葛上郡の雲櫛社に坐ますとありて、又、『式の神名帳』に大和国葛上郡大倉比売神社〈一名、雲櫛社〉とあるを、以て下照媛命の大倉主姫命と称する事を知るべし。下照姫は大国主神の御子にして、御子の御名は父神の御名に慣う事、この他記紀に多く見えたり〈豊玉彦女を豊玉姫云うが如し〉。又、大国大倉はラとニと一字の違いのみにて、もし仮字日本紀などより書き誤れるものにもあらんか。重ねて考うるに、大国主神を大倉主神と云える事は、一名の記紀に洩れたるなるべし。必ず此の神、一名なるべく思わるる証は、『出雲風土記』、楯縫郡玖澶郷タテヌイグンクタミゴウの事、記せる處に、「所造天下大神命アメノシタツクラシシオオカミ、天御飯田之御倉アメノミケダノミクラを将に造り給う」【※。天下大神命=大国主の別称。天御飯田之御倉=大国主の神稲の倉庫】。並びに夏、巡行し給う云々。御子の御名の大倉あり。然るのみならず、彼の出雲国に大蔵山〈『風土記』に島根郡大倉山。郡家の東北九里一百八歩〉あり。小倉山〈同書に島根郡小倉山。郡家の正東二四里一百十歩〉あり。此の遠賀郡にも大倉山・尾倉村あり。その據(=處)ある事思い合わすべし。菟夫羅姫は『大神宮延暦儀式帳』に曰く「末官帳入田社事、津布良神社。大水神の児、津布良比古・津布良比売命。形無し」。又『元々集』六巻に「『神官末官帳』十五社の内に津布良神社あり」。大水神は大山祇神なる事、『儀式帳』に見ゆ。『古史伝』にも大山祇神と定めたる論あり。さらば神代に於いて何れの神に当たらんと云うに、是は須勢利姫命スセリヒメノミコトなるべし、その証しは大山祇神の子は足名椎神アシナヅチノカミ、足名椎神の子は稲田姫イナダヒメなり。稲田姫神の子は須勢利姫神なる事は『古事記』を以て知るべし。〈須勢利媛を大山祇の子とあるは、外戚によりてなり。神代には孫・玄孫をも子と云える例多し〉須勢利姫は大己貴命の嫡后なれば大倉主・菟夫羅媛は夫婦の神にて、仲哀記の文の男女二神とあるにかなえり。さて、大国主神を大倉主神とする時は、遠賀郡にて見今、何れの社を以て其社と定めんか。高倉神社の祭神は天照大神にて、大倉主神にあらざることは上に論ずるが如し。然れば大国主神を祭れる社、此の郡内にして地理の形の符える所と社柄とを考えれば、同郡中間村の惣社なるべし。惣社は諸国に類社多く、一国の魂の神にて、必ず大己貴神を祭れる事、その例少なからず。此の社、往古は岡川の流れ、湊に打ち入る大河の深淵に臨みて、当郡東南の上に位し、大川・黒川二つの水勢、此に至りて一つに合う處なれば、実に湊の水源とも云うべき所なり。郡内の地理古跡等も大己貴命の坐ます出雲国の地形に比して其名を同せる所多し。『大日本一宮記』に「隠岐国知夫郡由良姫神社、大己貴命の嫡后須勢利姫なり。『神名帳』頭註に「由良姫・大己貴命の嫡后須勢利姫命、元の名は和多須神」とありて、又、『伊予国風土記』に「宇知郡大山積神。一名、和多志大神也」とあるを以て、父子神なる事知れたり。当郡浅川村日峯神社〈旧号火峯社〉。祭神或る説に「天照大神・加具土・比奈麻智姫命なり」とあれも、是と違える説にて、都夫羅媛社なるべし。沖ゆく舟、暗夜に風雨の難ありて、湊に入る事を得ざる時、此の神に祈れば忽ち神火を山上に出し玉い、其舟、湊に着くとなん。伊予国大山積神を和多須神と云えるも、海上にて難風に逢える人を渡して救い玉う故の神明なるべし〈『東済随筆』に参議佐理、太宰府の帰路、風浪の悪しきを神助ありしこと見ゆ〉。隠岐国海部郡焼火神社は神名帳に比奈麻智姫神社とありて、其霊験、日峰神社の火を揚げ玉うに同じければ、後世これを混交して此の日峰神社にも比奈麻知姫神を祭れるならん。日峰の山上に琴弾岩あり〈『古事記』に須勢利姫命、黄泉国より浪琴を取り持ちて逃げ出し玉う事を記せり〉。出雲国飯石郡イイシグンに琴引山あり〈『風土記』に見ゆ〉。かかる神跡の例をも考え合わせて、日峰社の須勢利姫神にまして一名を菟夫羅姫云う事明らかなる時は、此の社に定べきなむ。今、按ずるに高倉社の祭神、前の輩、皆、疑いを存せり。保親が説、頗る精確なり。高倉下、経津霊剣フツノミタマノツルギを滉ワタシて、神武天皇に奉りし事、『書紀』に見え、地名の高倉、社号の剣、ともに據あり。又、菟夫羅媛の須勢利姫なる事も明らかなり。但そ、大倉主を総社とし、菟夫羅媛神を日峰社とするに至りては、前人未発の説なれども、その要を採りて此に録し考証に備う。凡そ国中の諸社旧記、兵火に焼失して神名さえ伝わらざるあり。近世の縁起伝説は神官の私意に出るもの多ければ、見存の古文書を徴とし、その他は棟札・鐘銘等に據りて却ってその実を得る事あり。当社の社記も元禄の頃の作にて、証とするにたらず。猶、浅川村日峯神社、夜須郡上秋月村八幡宮の條等を併せ考うべし」。

古は神殿壮麗に末社も二十余所ありて、いかめしき大社なりしと云う。永禄2年己未に大友義鎮、耶蘇の法に迷い、旗下・諸所・神社を多く焼きしが、この社にも火を掛けたりし故、神殿を初め社記・寶器、一時に灰燼となり、一丈圓輪の日光、一丈余の多宝塔、一丈の鰐口など、金銅を以て鋳たりしも悉く焦土となり、銅造の多聞天のみ残れり。その時の宮司坊栄源、当社再興の願を発し、天正五年(1577)丁丑二月、勧進状を捧げて遍く四方に他力を請う。宗像大宮司氏貞、その頃この辺りを領せしかば、本社を造営す。(社地の古図を見るに、川端に朱の鳥居あり。それより東に入りて楼門あり。これを入りて右に主殿というものあり。正面には鰐口堂あり。それより石階を上りて拝殿・本殿あり。右に僧座というものあり。その外に毘沙門天あり。坂を上りて左に御供屋・神楽堂あり。聊し北の上に熊野社あり。その右に薬師堂あり。境内北より入口の左に鐘楼あり。さて、この図のかたはしに「宮司職栄源、五十九代目、為後代覚記録之、天正九年辛巳九月上旬書之」とあり)。渡殿・拝殿は小早川隆景の時に至りて造進せらる。祠前の鳥居は、元和元年乙卯に立つ。それ以前、黒田長政、此山に狩せられ米穀を社僧に與えらる。社僧、これを助としてこの鳥居を立てたり。『塔志随葦』というものにこの鳥居を立つる時、楠枝さわる事あり。これを切らんと議しけるに、その夜、枝子しりて退くこと五尺ばかり也、とあり)。その後ろは、本社・渡殿・拝殿・末社七所。鳥居・御供屋・御輿屋・薬師堂・鐘楼まで、時を以て国主より造営あり。薬師堂・鐘楼は明治四年辛未に廃せり。(古鐘一口あり。高さ竜頭まで五尺六寸。周九尺九寸。三柏の紋を附けたり。宗像大宮司の寄進なるべし。銘には慶長五年十二月、黒田長政寄附の由記せしと。長政はこの年十二月十一日に初めて入国あり。さる暇あるべからず。これは社人ら国主に阿諛せる業なりと或る人言えり。これも辛未年に打毀てり)。年中の祭祀、月ごとの朔望および午日には、わきて神饌を供う。正月二日より六日まで年始祭。同七日・十五日、二月九日、三月三日・同十五日、五月五日(神事)。六月晦日(名越祓)。七月七日(神事)。九月九日は、ことに大祭にて、その前日に神輿、芦屋津の下宮に出幸あり。その道筋、矢矧というところに仮殿を設けて神與をやすめ奉り、音楽を奏し、下宮に着かせたまい、その夜は彼所にとどまり給い、翌九日に還御なり。この時十二騎の流鏑馬・相撲・舞楽などあり。霜月九日(神事)。十二月晦日(年越祭)。凡そ年中数十度の中にも、二月九日・九月九日・十一月九日の神事を三節の祭とて大祭とせり。その後、神事も絶えたりしが、慶長の末に産徒ら力を戮わせて再興し始めて、山神山(本村の南三町ばかり)に頓宮を構えて神與を移し奉る。相撲等を興行す。近世は九月八日に吉木村菅原神社まで神幸ありしが、明治七年甲戌、旧に復して芦屋町まで出幸あることとなれり。神領は岡千町と俗に言い伝う。その名、田字に多く残れり。『応永年中定書』と云う物に、「神田云々。高倉宮 金剛般若経(併燈油料)、一町八反大(六反八十。五力。初十日、六反八十、小久安。中十日、六反八十、重富。下十日)。同宮毎月朔日、御供料五段、有松。同宮正月十五日、鈴口開一段、有松。同宮御神楽料三反、弥富名云々。神免高倉宮三季御祭料二十四国二斗四升、内(永徳役、二月九日。重富役、九月九日。吉恒役、十一月九日)。同御宮(九九)饗膳料二石八斗、吉永役。同御宮大般若経料三石三斗六升、弥富役。同御宮毎月一日(色正饗料)二石二斗四升、弥富役。同御宮仁王講(毎月一日の料)二石八斗、重富役(今右京)。同御宮拝殿修理料五石六斗、有松役。同御宮二季(彼岸添花)料八石九斗六升、内(四石四斗小、久安役。二石九斗八升七合、鶴王。一石四斗九升三合、山三役)。同御宮(二季彼岸)御供料五石六斗、五力役。同御宮(正月)御鏡料一石一斗小、久安役(今田小)。同御宮毎月(一日、十五日)御神楽料十六石八斗、内(有松役、毎月一日。総命婦、毎月十五日)。流鏑馬給六十七石二斗、十二騎分(一騎分五石六斗宛)。高倉宮朔弊二斗四升、有松役。同宮(正一)朝拝二石四斗、有松役。正月十日政料四石八斗(今三石)、吉永役。

一、目録の外、諸ろ下されり兮。高倉宮三季の御祭事。八日夜、御供米九斗六升(今六斗)。同宮九月九日御祭事の弓袋指料一斗六升(今一斗)。同宮九月九日御祭事調度懸料一斗六升(今一斗)。庄屋印鑑(十一月十日)御祭料米一石四斗四升(今九斗)云々とあり(この書、近年散逸して無し)。

応永十四年丁亥、足利家より沓屋六郎左衛門入道昌正、同、志井入道長野掃部と云う士を下して、神領を検見せられし事あり(上の定書の奥にあり)。正長の頃は神田二十四町六段。この外、垣前庄にて現作田二百十四町五段余、当社の処分なり。

豊臣秀吉、筑紫陣の時、諸国大社の神領を悉く没収して私領に加えられしが当国は小早川隆景に與えられければ、孝景私かに水田一町余寄進あり。秀秋の時、これも没収せられしかば、弥よ社頭頽廃せり。黒田長政入国に及びても、神領は前国主の例に任せられし故、寄附の沙汰なし。天和二年壬戌十二月に至りて、黒田光之三十石の神領を寄せて、宮司及び社家四人に支配せらる。この外にも開田三反、山林六千三百坪を附けらる。社僧の坊を覚応山神伝院神宮寺と云う。真言宗高野山発光院の末なり(社側にあり)。神功皇后・伊賀彦命を以て祭主としたまえる。その末裔なるか。いつの頃にか、削髪して僧となれりと云う。

 古文書写に「筑前国遠賀庄地鎮主高倉宮社田、吉木野百町地等事、前別当氏運、弘安六年二月三日譲状、且任代々証文之旨、不可有知行領相違状如件。永仁四年六月三日、太宰府少弐版。別当御坊野上左衛門殿」(現代語訳:筑前国遠賀庄の鎮守(地主神)である高倉宮の社領の田地、および吉木野百町などの領有権について。前の別当氏運が、弘安六年二月三日に作成した譲状、および代々受け継がれてきた証文の主旨に基づき、今後も実際の知行・占有および領有に何ら間違いや紛失があってはならないことを公認する書状は、以上の通りである。

永仁四年六月三日    大宰府少弐氏 判

別当御坊・野上左衛門殿」

又、「高倉大明神別当職之事、対氏常預之候。乃公私御祈祷、守旧儀、無怠慢、可取存事、専一候、為向後、一筆如件、永和三年四月五日 少納言彦判 野上平大輔殿」

(現代語訳:高倉大明神の別当職について、氏常にこれを預け置いた。 ついては、公私の御祈祷について、これまでの旧儀を厳格に守り、少しの怠慢も無く執り行うことを専一とせよ。将来のために、書き記す書状は以上の通りである。

永和三年(1377)四月五日      少納言彦〔花押〕

野上平大輔 殿

とあり。(廣渡村松本氏所蔵。又、松本氏家記に昔は社官十九人あり。筑前坊神宮寺、十光坊・総持院・谷内坊・長官坊・神主十三軒の内八軒は、筑前坊、別家と為すなり。筑前坊は野上氏にして宗像朝臣なりと見ゆ)。末院五所あり。千光院(本村)・総智院(同上)・勝業寺(吉木村)・正覚寺(糠塚村)・長福院(宗像郡吉田村と云う。今不詳)と云う。明治の初め皆廃す。この外、社家五戸(安部氏・占部氏・安高氏・小川氏・大村氏)。巫女、四戸ありしも同時に廃せり。

社地に神木、松・杉・楠・楓・梛の五樹ありしも(楠、神后が御手づから植えたまいし所なり)、楠は隆景の時伐れり。その余の木も或いは枯朽し、或いは顛倒す。杉のみは今にありて繁茂せり(周一丈五尺)。社後に高津山聳え、社前に乳垂川流れて、物さびたる境地なり。

摂社、二。陽御前神社・陰御前神社(今の社説には諾冊二尊と云う)。縁起一巻あり(元禄八年貝原好古撰)。

末社、五。大国主神社・仲哀天皇社・厳島神社・住吉神社・志々岐神社(以上、皆社地。高倉社旧記に「志々岐社、毎月御祭料一段小、安久」とあり)。

高倉神社の項 現代語訳

1. 概要と由緒

本村の南の山裾にあり、神殿は西を向いている。芦屋村にある岡湊神社の本社である。この場所の地主神であり、かつては遠賀郡二十二箇村の総社であった(二十二箇村とは、高倉・吉木・三吉・手野・内浦・原・波津・松原・新松原・黒山・上畑・野間・海老津・山田・糠塚・尾﨑・戸切・虫生津・別府・若松・鬼津・芦屋である)。

明治5年(1872年)の壬申の年、当郡の郷社に列せられた。祭神は大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅姫命(つぶらひめのみこと)である。相殿(合祀)には天照大御神を祀る。例祭日は9月9日である。

社記には次のように記されている。 「仲哀天皇の8年、熊襲(くまそ)が反逆し奉ったので、天皇は皇后(神功皇后)とともに筑紫へ行幸し、これを征伐しようとされた。岡の水門(おかのみなと)に到着された際、御船が進まなくなってしまった。そこで岡の県主(あがたぬし)である熊鰐(くまわに)を召してその理由をお尋ねになったところ、熊鰐は『この浦の入り口に男女の二柱の神がいらっしゃいます。男神は大倉主、女神は菟夫羅姫と申し上げます。きっとこの神の御心によるものでしょう』と申し上げた(この二神は水神であり、大水神の子であると『大神宮儀式帳』に記されている)。天皇はこれをお聞きになり、船頭の倭国宇陀の人である伊賀彦(いがひこ)を神職(祝)として祭らせたところ、すぐに御船は進むことができ、岡津にお着きになった。

こうして天皇は皇后とともに策略をめぐらし、岡津にしばらく滞在されて、諸軍に命じて兵器を鍛え、弓矢を準備させられた。そのため、その場所を名付けて『矢矧(やはぎ)』という(芦屋から一里ほど西の海辺にある)。

ここで熊鰐が皇后に申し上げたことには、『この県に高津峰(たかつみね)という、三面宝珠の形をした山があります(当社の背後の山である)。この峰には多くの神々が天降りいらっしゃいます。これは国家鎮護のためでございます。急ぎあの峰に登拝され、朝敵誅伐のこともお祈りなされませ』と言ったので、皇后は大変お喜びになり、この山に登って熊襲征伐を祈願され、自ら五株の霊木をこの地に挿して神の誓いのしるしとされた。程なくして岡津にお戻りになり、天皇と相談されて、『この場所は国の端であるから、長く皇居(都)とするべき所ではない。香椎宮(かしいのみや)へ移られるのがよい』として、軍勢を発たせられた。

なるほど、このたび西国へ下られたのは熊襲征伐のためであるから、敵国はまだ遠いとはいえ、もっぱら軍列を正しくし、号令を厳格にされた。そのため、まず御旗を立てられた場所を『旗の浦』という。今は訛って『初浦(はつうら)』と言っている。鉾を立てさせられた場所を『鉾野浦』という。天の鏑矢(かぶらや)を立て置かせられた場所を『天野の海辺』という。ついにこの場所に宿陣されたが、海風が激しいのを嫌い、仮に千本の松の枝を刺し並べられたところ、後にその松が生い茂ったため、その場所を名付けて『垣崎松原(かきざきまつばら)』という(また『岡の松原』ともいう。今は俗に『吉木松原』という)。

こうして程なくして香椎宮に入られ、その後天皇が崩御されたので、皇后が天皇に代わって熊襲を討ち平らげ、新羅を攻め従えて、その年の12月に帰国された。この度祈りを捧げて祀った神々に報謝(お礼参り)をされ、それぞれが鎮座しようとされる場所に神社を建ててお祭りになった。 中でも大倉主・菟夫羅姫の二神は水神であり、仲哀天皇が筑紫に下られたときに神異(奇跡)があった。また、皇后が三韓を征伐されたときも神々のみ助けが浅からぬものであったため、摂政2年(202年)壬午の5月の午の日、初めて勅命を下し、この高倉の村に社殿を建てて祀らせた。このため、今に至るまで(祭礼には)午の日を用い、祭日とし奉るのである。

このように神功皇后が崇め尊ばれた神であるため、その後も代々の帝の尊崇は他よりも際立っており、遠賀県(郡)の多くの神田を寄進され、年中三度の大祭のときには在庁の官人にその事務を監察させられた。武家が政治を執るようになってからは、検使がやって来て祭りを助けたという。相殿に天照大神を祝い祭り奉っているため、現在は三座の神が鎮座されている。」

2. 草薙剣と八剣宮の伝承

天智天皇の御代、新羅国の沙門(僧)である道尭(どうぎょう)という者が、尾張国熱田宮に祀られている草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗み取って逃げようとした。最初の時は熱田社の扉を出る際、紫雲が覆ってこれを引き留めた。その後、また盗み出して逃げ去ったが、近江国に至ったところで再び雲が立ち覆って奪い返した。この時、道尭はその剣を取り返そうと西から東へと追いかけたが、取り返すことはできなかった。その追いかけ始めた場所を名付けて「おいそ」という。「老曽(おいそ)の森」がある場所がこれである。

また(別説、あるいは再度)盗み出して筑紫の博多まで下ったが、またも取り返された。この時、都から官使(朝廷からの使者)がやって来てこの御剣を受け取る間、「清浄な土地に置くべきだ」と議論された。当社(高倉神社)は古来の霊場であり、特に堅固な土地であるということで、神殿の内に籠め置き奉った。ほどなくして勅使がやって来てこれを守護し、また元の熱田宮へ納め奉った。

天皇はこれをお聞きになり、「またあの道尭のような盗賊が現れて(神剣を)汚すようなことがあってはならない」と、苦々しく思し召され、ある鍛冶職人に命じて、その剣と同じような剣を七つ作らせ、別殿を建てて、合わせて八つの剣を納められた。「八剣の宮(やつるぎのみや)」がこれである(神道では深く「八」の数を尊ぶ理由がある。ゆえに七つの剣を作り添えて八剣の宮という)。この時より熱田の宮では日本武尊(やまとたけるのみこと)を本社にお祭りになった。また、当社にしばらくその剣を籠め置いたこと、後に(熱田に)八剣の称号が生まれたことにより、当社をも俗説では「八剣宮」と申し上げ奉るのだという。

3. 諸学者の考証(青柳種信・伊藤常足・平田篤胤・宮永保親らの説)

青柳種信が言うには、 「社記によると『往古、面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)の男女の神が、高津峰に降臨された。白鳳年間に至って現在の本社の地に遷座され、八剣大明神として崇敬し奉る』という。当社を八剣大明神というのには由緒があるのだろうか。また、大倉主・菟夫羅姫という神名については、この地域の記録などには載っていない。古い記録は乱世に焼失して伝わっていないため、社の歴史の真実は不詳である。現在、本社の左右に陰御前・陽御前として二社がある。これは上にいう男女二神を祀るものであろう。大倉主・菟夫羅姫の二神は昔からこの地に鎮座する神であるはずだ。古い社記の文章は、大倉主・菟夫羅姫の二神を面足尊・惶根尊に混同した言い伝えである」 というが、これは理解しがたい。必ずこれは別の神社であるはずだ。

伊藤常足が言うには、 「『高倉縁起』『和漢三才図会』『和尓雅(わじが)』等に、祭神を大倉主・菟夫羅姫と書いているのは、中世に作られた当社縁起の説であって、例によって『日本書紀』の記述に無理にこじつけたものである。古い記録にはほとんど見えないことである」 という。

平田篤胤が言うには、 「『新撰姓氏録』を見ると、河内国に尾張連・吹田連・身人部連・五百木部連・若犬養丹比連など、火明命(ほあかりのみこと)の子孫の氏族が多く住んでいる。また、大県郡・渋川郡に、賀義などと見える郷名はすべて理由があって思われる。それについて考えてみるに、『神名帳』の高安郡に『天照大神、高座神に座す』とある社も、間違いなく火明命と香山命(かごやまのみこと)を祀っているのだろうと知られる。それは『先代旧事本紀』が天照国照彦火明命と櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)とを同一の神とし、香山命と高倉下(たかくらじ)とを同一の神としたのは、こじつけであろう」 と、我が師(篤胤)は言われたが、よく考えてみれば、これは本当に疑いのないことであるから、この(高倉)神社は火明命と香山命(またの名を高倉下命)の二座を祀っているのに違いあるまい。

なお、照らし合わせるべきことは、陽成天皇の元慶元年(877年)12月の条に、「筑前国正六位上天照神に、従五位下を授ける」と見えている神社は、貝原氏の『和爾雅』に「遠賀郡高倉村にある」とされている。相殿の神一座は天照大神であり、神功皇后が祭られた神社の由緒を語っている。これは「天照神」という名につられて、天照大御神だろうと思って「天照大御神」と言っているようだが、決して日の大御神(アマテラス)ではなく、火明命であると思われる。あの大后(神功皇后)の御世にこの場所で鏡を作らせられたことなどがあり、それでお祭りになったのだろうと推測されるからである。

宮永保親が言うには、 「『筑前早鑑』に、高倉八剣大明神という社の末社が二十五社あると記されている。同社の梵鐘の銘文にも八剣大明神と記されている。『古語拾遺』に『崇神天皇はさらに斎部氏(いんべうじ)に命じて、石凝姥神(いしこりどめのかみ)の子孫と天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の子孫の二氏を率いさせ、さらに鏡を鋳造し、剣を造らせた』とあるのを思えば、この神を祀って『剣大明神』というのも理由がある。火明命の子孫がこの国にいて、かの史伝の説のように、大后(神功皇后)の御代に太刀や鏡などを理由があって造らせ、火明命を祀って『剣の社』とも言い、また(子孫の)高倉下の名から二字を取って社号としたのだろうか。それが後に村の名前ともなったのだろう。そうであれば、陽成天皇の元慶元年に神位を授けて崇められた『天照神』はこの神社であるということが知られる。

かつて遠賀川より西の二十余りの村はこの神社の氏子であり、中古(中世)、時の領主から社領を寄進されて崇敬されていたため、境内は広く樹木が鬱蒼としており、この辺りでは大社である。しかしながら、菟夫羅姫・大倉主神を祀ってその社とする(貝原益軒らの)説は、貝原の説から始まっており、『日本書紀』の『この浦の口に有る神』と記された本文(地理的状況)に合致しない。高倉神社の場所は、岡湊から距離にして三里も離れた山の中である。

大倉主神は『日本書紀』『類聚三代格』『国史』などに出ているけれども、神系の出処を知る手がかりがないため不詳である。けれども、これは大国主神の別名であろう。〈天照大神の御名は、仲哀記に『天疎向津媛神(あまさかるむかつひめのかみ)』とあって、神代巻には無いようなものである。〉 そう思う理由は、この神の御子に『大倉媛命(おおくらひめのみこと)』という神がいらっしゃることによる。『先代旧事本紀』に下照媛命(しもてるひめのみこと)が倭国葛上郡の雲櫛社(くしくしのやしろ)にいらっしゃるとあり、また『延喜式神名帳』に大和国葛上郡『大倉比売神社〈一名、雲櫛社〉』とあるのをもって、下照媛命が『大倉主姫命』とも称されることを知るべきである。下照姫は大国主神の御子であり、御子の名が父神の名に倣うことは、この他に記紀(古事記・日本書紀)に多く見られる例である〈豊玉彦の娘を豊玉姫というようなものである〉。 また、『大国(おおくに)』と『大倉(おおくら)』は、『ラ』と『ニ』の一字の違いにすぎず、もし仮名(または漢字)の日本紀などから書き誤ったものであろうか。重ねて考えるに、大国主神を大倉主神といったことは、別名の一つが記紀に漏れたものであろう。必ずこの神の別名であろうと思われる証拠は、『出雲国風土記』の楯縫郡玖澶郷(くたみのごう)の条の記述に、『所造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみ=大国主の別称)、天御飯田之御倉(あめのみけたのおおくら=大国主の神稲の倉庫)をまさに造り給う』とあり、並びに夏に巡行されたことなどが書かれている。御子の名にも大倉がある。そればかりでなく、かの出雲国には大蔵山(風土記には島根郡大倉山。郡役所の東北九里百八歩)があり、小倉山(同書に島根郡小倉山。郡役所の正東二十四里百十歩)がある。この遠賀郡にも大倉山や尾倉村がある。その根拠があることを照らし合わせるべきである。

菟夫羅姫については、『大神宮延暦儀式帳』に『末官帳入田社事、津布良神社。大水神の児、津布良比古・津布良比売命。形無し』とある。また『元々集』六巻に『神官末官帳、十五社の内に津布良神社あり』とある。大水神は大山祇神(おおやまつみのかみ)であることは『儀式帳』に見える。『古史伝』にも大山祇神と定めた議論がある。それならば神代において(記紀の)いずれの神に当たるかといえば、これは須勢利姫命(すせりひめのみこと)であるはずだ。その証拠は、大山祇神の子は足名椎神(あしなづちのかみ)、足名椎神の子は稲田姫(いなたひめ)である。稲田姫神の子が須勢利姫神であることは『古事記』によって知ることができる。〈須勢利媛を大山祇の子としているのは、母方の家系(外戚)によるものである。神代には孫や玄孫をも子という例が多い〉 須勢利姫は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主)の正妻(嫡后)であるから、大倉主と菟夫羅媛は夫婦の神であり、仲哀記の文章にある『男女二神』という記述にも合致する。

さて、大国主神を大倉主神とするならば、遠賀郡において現在、いずれの神社をその社と定めるべきか。高倉神社の祭神は天照大神(または火明命)であって、大倉主神ではないことは上に論じた通りである。それならば、大国主神を祀っている神社で、この郡内において地理的な形状が合致する場所と、神社の格式(社柄)とを考え合わせれば、同郡の中間(なかま)村の惣社(そうしゃ)であるはずだ。惣社は諸国に同様の神社が多く、一国の魂となる神であり、必ず大己貴神(大国主)を祀っているという例は少なくない。この神社は、往古は岡川(遠賀川)の流れが湊に流れ込む大河の深淵に臨み、当郡の東南の高台に位置し、大川(遠賀川)と黒川の二つの水勢がここで一つに合流する場所であるから、実に湊の水源ともいうべき場所である。郡内の地理や古跡なども、大己貴命が鎮座される出雲国の地形に比して、その名を同じくしている場所が多い。

『大日本一宮記』に『隠岐国知夫郡由良姫神社、大己貴命の嫡后須勢利姫なり』とあり、『神名帳』の頭註に『由良姫は大己貴命の嫡后須勢利姫命、元の名は和多須神(わたすのかみ)』とあって、また『伊予国風土記』に『宇知郡大山積神。一名、和多志大神(わた大御神)也』とあるのをもって、父子神であることが知られる。 当郡の浅川村にある日峰(ひのみね)神社〈旧号は火峰社〉。祭神について、ある説に『天照大神・加具土・比奈麻智姫命(ひなまちひめのみこと)である』とあるのも、これとは異なる説であって、(本来は)都夫羅媛(つぶらひめ)の社であるはずだ。沖を行く船が、暗い夜に風雨の災難に遭って湊に入ることができないとき、この神に祈れば、たちまち神聖な火を山の上の出し、その船は湊に着くということだ。伊予国の大山積神を『和多須神』というのも、海上で悪風に遭った人を渡して救い給うがゆえの神徳であろう〈『東済随筆』に参議・藤原佐理が太宰府からの帰路、風浪が激しかったのを神の助けがあったことが見える〉。隠岐国海部郡の焼火(たくひ)神社は、神名帳に『比奈麻智姫神社』とあって、その霊験は日峰神社が火を掲げ給うのと同じであるから、後世にこれを混同して、この日峰神社にも比奈麻知姫神を祀るようになったのだろう。日峰の山上に『琴弾岩(ことひきいわ)』がある〈『古事記』に須勢利姫命が根の国(黄泉国)から天の沼琴を持ち出して逃げられたことが記されている〉。出雲国飯石郡(いいしぐん)には琴引山(ことびきやま)がある〈『風土記』に見える〉。このような神跡の例をも考え合わせて、日峰社の須勢利姫神の別名を『菟夫羅姫』ということが明らかであるときは、この神社(日峰神社)に定めるべきであろう。

いま、考えてみるに、高倉神社の祭神については、先行の学者たちも皆、疑問を抱いていた。宮永保親の説は非常に精確である。高倉下が経津主神の霊剣(布都御魂剣)を渡して神武天皇に奉ったことが『日本書紀』に見え、地名の『高倉』、社号の『剣』、ともに根拠がある。また、菟夫羅媛が須勢利姫であることも明らかである。ただし、大倉主を(中間村の)惣社とし、菟夫羅媛神を日峰社とするに至っては、これまでの人が誰も言い出さなかった新説(前人未発の説)であるが、その要点を採用してここに記録し、考証の備えとする。 およそ国の中の諸々の神社の旧記は、兵火によって焼失して神名さえ伝わっていないものがある。近世の縁起や伝説は神官の私意(身勝手な考え)から出たものが多いので、現存する古文書を証拠とし、その他は棟札や鐘の銘文などに拠ることで、かえってその真実を得ることがある。当社の社記も元禄の頃の作であって、証拠とするには足りない。なお、浅川村の日峰神社、夜須郡上秋月村の八幡宮の条などをあわせて考えるべきである。」

4. 社殿の興廃と天正の造営

古くは神殿が壮麗で、末社も二十余所あり、おごそかな大社であったという。永禄2年(1559年)己未の年、大友義鎮(宗麟)がキリスト教の教え(耶蘇の法)に迷い、配下の軍勢や諸方の神社を多く焼き払ったが、この神社にも火を掛けたため、神殿をはじめ社記・宝物が一時に灰燼(灰と燃えかす)となった。一丈(約3メートル)の円輪の日光、一丈余の多宝塔、一丈の鰐口(わにぐち)など、金銅で鋳造したものもすべて焦土となり、銅造の多聞天像だけが残った。

その時の宮司坊であった栄源(えいげん)が、当社再興の願いを発し、天正5年(1577年)丁丑の2月、勧進状を捧げて広く四方に他力(寄付)を請うた。宗像大宮司氏貞(むなかただいぐうじうじさだ)がその頃この辺りを領有していたので、本社を造営した。(社の土地の古絵図を見るに、川のほとりに朱塗りの鳥居がある。そこから東に入ると楼門がある。ここを入って右側に「主殿」というものがある。正面には「鰐口堂」がある。そこから石段を上ると拝殿・本殿がある。右側に「僧座」というものがある。そのほかに毘沙門天がある。坂を上って左側に「御供屋」「神楽堂」がある。少し北の高台に「熊野社」がある。その右側に「薬師堂」がある。境内北からの入り口の左側に「鐘楼」がある。さて、この図の端に『宮司職栄源、五十九代目、後代の覚えのためにこれを記録す、天正九年辛巳九月上旬にこれを書く』とある)。

渡殿(わたりどの)・拝殿は小早川隆景の時代になって造営・寄進された。祠(社)の前の鳥居は、元和元年(1615年)乙卯の年に建てられた。それ以前に黒田長政がこの山で狩りをされ、米穀を社僧に与えられた。社僧はこれを資金の足しとしてこの鳥居を建てたのだった(『塔志随葦』という書物に「この鳥居を建てる時、楠の枝が邪魔になることがあった。これを切り落とそうと相談したところ、その夜、枝が自ら縮んで五尺(約1.5メートル)ほど退いた」とある)。

の背後は、本社・渡殿・拝殿・末社七所。鳥居・御供屋・御輿屋・薬師堂・鐘楼まで、時期ごとに国主(藩主)によって造営があった。薬師堂と鐘楼は明治4年(1571年)辛未の年に廃止された。(古い鐘が一口あった。高さは竜頭まで五尺六寸。周囲は九尺九寸。三柏の紋が付けられていた。宗像大宮司の寄進によるものであろう。銘文には慶長5年12月に黒田長政が寄附した旨が記されていたという。しかし長政はこの年の12月11日に初めて入国したばかりである。そんな余裕があるはずがない。これは社人(神職)らが国主に阿諛(へつら)った行いであると、ある人が言っている。これも辛未の年(明治4年)に打ち壊された)。

5. 年中行事(祭礼)

年中の祭祀として、毎月の朔望(一日と十五日)および午(うま)の日には、格別に神饌(お供え物)を供える。

  • 正月2日から6日まで:年始祭。
  • 同7日・15日、2月9日、3月3日・同15日、5月5日:(神事)。
  • 6月晦日(月末):名越祓(なごしのはらえ)。
  • 7月7日:(神事)。
  • 9月9日:これは特に大祭であり、その前日に神輿が芦屋津の下宮へ出幸(お出まし)になる。その道中、矢矧という場所に仮殿(御旅所)を設けて神輿を休ませ奉り、音楽を奏でて、下宮に到着される。その夜はそこにとどまられ、翌9日に還御(お戻り)になる。この時には十二騎の流鏑馬(やぶさめ)・相撲・舞楽などが行われる。
  • 霜月(11月)9日:(神事)。
  • 12月晦日:年越祭。

およそ年中数十回ある祭事の中でも、2月9日・9月9日・11月9日の神事を「三節の祭」として大祭とした。その後、神事も途絶えていたが、慶長の末年に氏子(産徒)らが力を合わせて再興し始め、山神山(本村の南三町(約300メートル)ほど)に頓宮を構えて神輿を移し奉った。相撲などを興行した。近世は9月8日に吉木村の菅原神社まで神幸があったが、明治7年(1874年)甲戌の年、旧儀に復して芦屋町まで出幸することとなった。

6. 神領(社領)の記録

神領は「岡千町」と俗に言い伝えられている。その名は田の字(地名)に多く残っている。 『応永年中定書』という書物には、以下のようにある。 「神田云々。高倉宮金剛般若経(あわせて燈油料)、一町八反大(六反は八十。五力。初十日は六反で八十、小久安。中十日は六反で八十、重富。下十日は六反で八十、重富)。 同宮毎月朔日、御供料五段、有松。 同宮正月十五日、鈴口開一段、有松。 同宮御神楽料三反、弥富名云々。 神免高倉宮三季御祭料二十四石二斗四升、内(永徳役、二月九日。重富役、九月九日。吉恒役、11月九日)。 同御宮(九九)饗膳料二石八斗、吉永役。 同御宮大般若経料三石三斗六升、弥富役。 同御宮毎月一日(色正饗料)二石二斗四升、弥富役。 同御宮仁王講(毎月一日の料)二石八斗、重富役(今右京)。 同御宮拝殿修理料五石六斗、有松役。 同御宮二季(彼岸添花)料八石九斗六升、内(四石四斗小、久安役。二石九斗八升七合、鶴王。一石四斗九升三合、山三役)。 同御宮(二季彼岸)御供料五石六斗、五力役。 同御宮(正月)御鏡料一石一斗小、久安役(今田小)。 同御宮毎月(一日、十五日)御神楽料十六石八斗、内(有松役、毎月一日。総命婦、毎月十五日)。 流鏑馬給六十七石二斗、十二騎分(一騎分につき五石六斗ずつ)。 高倉宮朔幣二斗四升、有松役。 同宮(正一)朝拝二石四斗、有松役。正月十日政料四石八斗(今三石)、吉永役。

一、目録の外、諸々下されたり。高倉宮三季の御祭事。八日夜、御供米九斗六升(今六斗)。 同宮九月九日御祭事の弓袋指料一斗六升(今一斗)。 同宮九月九日御祭事調度懸料一斗六升(今一斗)。 庄屋印鑑(11月十日)御祭料米一石四斗四升(今九斗)云々」 とある(この書物は近年散逸して現存しない)。

応永14年(1407年)丁亥の年、足利家から沓屋六郎左衛門入道昌正、および志井入道長野掃部という武士を下して、神領を検地(検見)させたことがある(上の定書の奥書にある)。正長の頃(1428年頃)は神田が二十四町六段あった。このほかに垣前荘にて、実際に耕作されている田が二百十四町五段余あり、当社の管理下にあった。

豊臣秀吉が筑紫征伐(九州平定)の際、諸国の大社の神領を悉く没収して(豊臣家の)直轄領(私領)に組み入れたが、当国(筑前)は小早川隆景に与えられたため、隆景(※原文「孝景」は隆景の誤りか、あるいは一族の誰か)が密かに水田一町余を寄進した。小早川秀秋の時代にこれも没収されたため、いよいよ社頭(神社)は衰退した。

黒田長政が入国してからも、神領は前国主の慣例に任せられたため、新たな寄進の沙汰はなかった。天和2年(1682年)壬戌の12月に至って、黒田光之が三十石の神領を寄進し、宮司および社家四人に支配(管理)させた。このほかにも開墾された田三反、山林六千三百坪を付けられた。

7. 社僧・社家・末院

社僧の坊(寺院)を「覚応山神伝院神宮寺」という。真言宗高野山発光院の末寺である(神社の側にある)。神功皇后・伊賀彦命(いがひこのみこと)をもって祭主とされた。その末裔であろうか、いつの頃にか髪を剃って僧侶となったという。

(中略:提示された現代語訳済みの古文書二通)

とある(廣渡村の松本氏所蔵。また松本氏の家系図・家記には、昔は社官(神職・僧職)が十九人いた。「筑前坊神宮寺」「十光坊」「総持院」「谷内坊」「長官坊」、および神主十三軒の内八軒は、筑前坊が別家としたものである。筑前坊は野上氏であり、宗像朝臣(むなかたのあそん)の流れを汲むと見える)。

末院(末寺)が五所あった。「千光院(本村)」「総智院(同上)」「勝業寺(吉木村)」「正覚寺(糠塚村)」「長福院(宗像郡吉田村という。現在は不詳)」という。明治の初めにすべて廃止された。このほか、社家(神職の家)が五戸(安部氏・占部氏・安高氏・小川氏・大村氏)、巫女が四戸あったが、同時に廃止された。

社地には神木として松・杉・楠・楓・梛(なぎ)の五つの樹木があった(楠は神功皇后が自らお植えになったものである)。しかし、楠は小早川隆景の時代に伐採された。そのほかの木も、あるものは枯れ朽ち、あるものは倒れた。杉だけが現在も残って青々と茂っている(周囲一丈五尺(約4.5メートル))。社の背後には高津山がそびえ、社の前には乳垂川(ちだれがわ)が流れており、物寂しくも厳かな境地である。

8. 摂社・末社

  • 摂社:二社
    • 陽御前(ひのみまえ)神社・陰御前(ひのみまえ)神社(現在の社説では伊弉諾・伊弉冉の二尊という)。縁起一巻がある(元禄8年(1695年)貝原好古 撰)。
  • 末社:五社
    • 大国主神社・仲哀天皇社・厳島神社・住吉神社・志々岐(ししき)神社(以上はすべて境内に置かれている。高倉社旧記に『志々岐社、毎月御祭料一段小、安久』とある)。

 貴船神社(本殿 横三尺、入二尺五寸。拝殿 二間四面。社地 十八坪)

本村にあり。祭神、高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)。祭日、二月二日。末社、三。伊賀彦宿祢神社・厳島神社・地主神社(ともに本村)

 菅原神社(本殿 横二尺五寸、入二尺。拝殿 二間四面。石鳥居 一基。七 十坪)

大山口にあり。祭神、菅公。祭日、八月二十五日。高倉社旧記に「高倉天満宮御寄進一町常不。吉木・山田両郷これ在り」とあり。

末社、五。貴船神社二所、保食神社、福持神社、日吉神社(ともに大山口)。

  小社一所

山神社(百合野)

○仏寺

  龍昌寺 (本堂 横六間半、入五間半。寺地 百五十坪。檀家百二十七戸)

本村に在り。玉雲山と号す。禅宗洞家。中本山長門国深川大寧寺に属して小本山たり。その初めは麻生弘繁が開基にして、開山は大寧寺八世足翁永満なり(永正二年寂す。『豊鐘善鳴録』に、「豊前大寧寺繁林禅師諱は瑞春、当寺に住せし由誌せり。この僧は、永正十五年に寂せり)。宗像家より寺領七段寄附あり(分限帳に見ゆ)。中頃、退転せしを黒田家の老臣井上道柏、再興して黒田如水の肖像(賛辞は大徳寺春屋。慶長十年に記す)。長政の霊牌を安置す。その時井上淡路守庸名室(庸名は道柏の息男にて徳川氏麾下の士たり。室は長政の息女なり。林光院と云う)。斎料等、年々寄進せらる。又、涅槃像をも一軸寄進せらる。道柏没後、この寺に葬る。庭樹院雪渓道柏と号す。

(碑陰に銘あり。曰く「居士播州飾東郡松原郷桂産、姓藤臣、井上氏、受領防州、実名之房、筑之業府属幕下之良臣也、覃于已三代相伝、而連称耆英、僉曰、国家綱領矣、走示勤政也、夙作夜思、力労心也、恢是忠孝義士、武威勇将、以茲溢于、誉聲朝野、天心知之、強而不遑挙似矣、中年在豊之城井日、得官殽入天徳和尚室、窺空門有此事、染指法味、寅磨夕淬、孜孜而不止、終識趙老柏樹根藁矣、即今茲因之曰道柏、然后龍峰派下江月和尚室、再挙上来底、無二無別、倶結眉毛、於副雪渓号、嗚呼至矣、尽矣、昔時大史見黄龍、心聞桂香、針芥相投、故宗朝喚大史作有髪僧、今也居士亦鬲、可嘉尚矣、後年業府君、得居士為遠賀庄今者、歳邃日尚、居士又内帰佛乗、外施仁政、国斉富、家長娯矣、今茲寛永甲戌初冬念又二蓂、世壽八十有余齢、而既羅微恙、一臥不起、舟俄移、終卜塋土於洞上、古刹玉雲精盧壟之、以永證香火不朽地、今子令孫不漫、雁行、成孝、尽哀、募蕑心不息、記是銘、雖然恐久漫滅、刻著石、以永樹厥誉、其辞曰、海内名高英傑士、忠肝義膽冠諸郎、黒田幕下羈将、漢祖朝庭蘇歟張、到處有功汗馬力、昔時無敵甲兵勞、隠舟壡邉蹤空去、埋玉池中執豈量、令子千孫榮紫府、阿爺萬代鳴姫陽、裸霛依𦾔高蔵廟、仁徳不移遠賀郷、碧海漫漫垣崎庄、青山岌岌玉雲堂、巍然寶塔密禅花、完爾倖盤正覚塲、秋菊傲霜墩妙体、寒梅綻雪法臫香、記銘永為恐漫滅、彰刻石碑準石棠、寛永十一龍集甲戌小春念二蓂、前総持当寺住山八世比丘金峯老欽誌之。

重要な文字の訂正(校訂)

『筑前国地理全誌』の編纂者が写し間違えた、あるいは石碑が削れていたと思われる箇所を、漢文の規則と禅宗の文脈から以下のように補正します。

  1. 「得官殽入」 ➔ 正しくは「得便踏入(たよりを得て踏み入る)」など 「殽(こう・まじる)」は意味が通りません。豊前城井の地(中津城代時代)で、たまたま機会(あるいは道に)「踏み入って」天徳和尚の門を叩いた、という意味の崩し字の誤認です。
  2. 「根藁矣」 ➔ 正しくは「根蔕矣(こんたい:根本・本質のこと)」 「藁(わら)」ではなく、草冠に帯と書く「蔕(へた・根元)」です。禅宗の有名な公案「趙州の柏樹子」の真髄(根本)を、ついに見極めた(終に識る)という意味になります。
  3. 「念又二蓂」 ➔ 正しくは「念有二日(二十二日)」 寛永11年甲戌の「初冬(10月)」の「念有二日(22日)」に亡くなった、という具体的な命日です。「有」が「又」に、「日」が瑞草の「蓂」に化けています(末尾の日付「念二蓂」も同じく「二十二日」です)。
  4. 「裸霛依𦾔高蔵廟」 ➔ 正しくは「英霊(あるいは仮霊)旧に依る高蔵廟」 「裸」ではなく、之房の「英霊」です。そして龍昌寺のすぐ近くにある地元の神聖な「高蔵宮(高蔵廟)」の神となって、今もこの地を守っているという、これ以上ない地域史のシンクロです。
  5. 「前総持当寺住山八世比丘金峯老欽誌之」 執筆者は、あの能登の広大なる大本山「総持寺(曹洞宗)」の格を持つ、龍昌寺の歴代住職(8世)である高僧・金峯老和尚です。彼がつつしんで(欽んで)これを記録(誌)した、という最高に格式高いエンディングです。

[書き下し文]

居士は播州飾東郡松原郷の桂産、姓は藤臣、井上氏、防州を受領す。実名は之房、筑の業府、幕下の良臣なり。已に三代に覃(およ)んで相伝え、連(とも)に耆英(きえい)と称す。僉(みな)曰く、「国家の綱領なり」と。

走示して政に勤むるなり、夙に作(お)き夜に思う、力は心に労するなり。是の忠孝の義士、武威の勇将を恢(ひろ)くす。茲を以て朝野に誉声溢れ、天心、之を知り、強(あなが)ちにして挙似(きょじ)するに遑あらず。

中年、豊の城井に在る日、便りを得て天徳和尚の室に踏み入り、空門を窺いて此の事有り。法味に染指し、寅(あさ)に磨き夕に淬(にら)ぎ、孜孜(しし)として止まず。終に趙老柏樹の根蔕(こんたい)を識る。即ち今茲(こんし)、之に因りて曰う、道柏と。

然る後、龍峰派下、江月和尚の室、再挙して上来底(じょうらいてい)、無二無別にして、倶に眉毛を結び、雪渓の号を副う。嗚呼、至れり尽くせり。

昔時、大史、黄龍に見みえ、心に桂香を聞き、針芥、相投ず。故に宗朝は大史を喚(よ)んで有髪の僧と作(な)す。今や居士もまた隔たり、嘉尚すべし。

後年、業府君、居士を得て遠賀庄に居らしむ。今や歳、邃(はる)かに日尚きも、居士は又、内には仏乗に帰り、外には仁政を施し、国は斉しく富み、家は長く娯しむ。

今茲、寛永甲戌、初冬、念有二日、世寿八十有余齢。而して既に微恙(びよう)に羅り、一臥して起たず、舟壡、俄に移る。終に塋土を洞上に卜す、古刹玉雲精盧、之に壟す。以て永く香火不朽の地と証す。

今、子・令孫、不漫にして雁行し、孝を成し、哀を尽くす。蕑(かん)を募るの心、息まず、是の銘を記す。雖然、久しく漫滅せんことを恐れ、刻して石に著し、以て永く厥(そ)の誉を樹つ。

其の辞に曰く、 海内に名高き英傑の士、忠肝義胆は諸郎に冠たり。 黒田の幕下、羈たる将か、漢祖の朝廷の蘇か張か。 到る処に功有り汗馬の力、昔時、敵無き甲兵の労。 隠舟の塋(はか)、辺(ほとり)に蹤(あしもと)空しく去り、玉を埋むる池中に執(しつ)、豈に量らんや。 令子、千孫、紫府(しふ)に栄え、阿爺(あや)万代、姫陽に鳴る。 英霊は旧に依る高蔵廟、仁徳は移らず遠賀郷。 碧海漫漫たり垣崎庄、青山岌岌たり玉雲堂。 巍然たる宝塔、密かに禅花ひらき、莞爾として倖いに正覚場に盤る。 秋菊、霜に傲りて妙体を敦うし、寒梅、雪に綻びて、法、自ら香る。 記銘永きを為すも漫滅を恐るればなり、彰らかに石碑に刻むこと石棠に準ず。

寛永十一龍集、甲戌小春念二日、前総持当寺住山八世比丘金峯老、欽(つつし)んで之を誌す。

井上周防之房の碑文 現代語訳

上之房居士は、播磨国飾東郡松原郷の由緒ある家柄(桂産)の生まれであり、姓は藤原氏(藤臣)、代々井上氏を名乗り、防門(周防守)の官位を受領された。実名は「之房」と言い、筑前黒田藩の藩主(業府)の幕下における最高の良臣である。すでに(黒田高政・孝高・長政の)三代にわたって一族で忠義を尽くし、ともに優れた宿老(耆英)と称えられた。誰もが「この人こそ国家の要(綱領)である」と口を揃えた。

藩政のために奔走し、朝早くから夜遅くまで国を思い、心身をなげうって労力を尽くされた。これほどまでに忠孝の義士であり、武威に満ちた勇将を他に知らない。このため、その名声は朝廷から民間(朝野)にまで溢れ返り、主君の心もそれを深く理解していたので、その功績をわざわざここで一つひとつ列挙する暇もないほどである。

中年になり、豊前の中津城(城井)に在番していた頃、居士は仏法との良きご縁(便)を得て天徳和尚の禅室へと踏み入り、仏門(空門)を深く窺うようになった。これが彼の禅の始まりである。仏法の奥深い味わい(法味)を体験した彼は、朝も夜も一心不乱に修行に励み(寅磨夕淬)、その歩みを決して止めなかった。そしてついに、唐の趙州和尚が示した「庭前の柏樹子」という難解な公案の根本(真髄)を完全に見極められた。これにちなんで、彼は自らを「道柏」と号したのである。

その後、(京都・大徳寺の)龍峰派下である高僧・江月和尚の禅室に入り、再び最高峰の悟りへと上り詰められた。居士の境地は江月和尚と「二つとなく、違いもない(無二無別)」ほどに一致し、互いに眉毛を結び合う(完全に一体となる)ほど深く通じ合い、和尚からさらに「雪渓」の号を授けられた。ああ、その禅の境地は、まさに極致にまで達し、尽くされている。

その昔、北宋の文人・蘇東坡(大史)が黄龍和尚にまみえ、心の中で高貴な桂の香りを聞き(悟りを開き)、互いに「針と磁石(針芥)」のように意気投合した。そのため、宋の朝廷は蘇東坡のことを「髪のある僧侶」と呼んだという。今、我らが之房居士もまた、その境地へと到達された。本当に素晴らしく、称賛すべきことである。

後年、主君(業府君)は居士の至高の人格と能力を頼りとし、彼をこの「遠賀庄」の守りとして配置された。あれから長い年月(歳邃く日尚し)が流れたが、居士は内には熱心に仏法を信じ(内帰仏乗)、外には民への慈悲深い政治を施された(外施仁政)。おかげで国は一斉に豊かになり、領民の家々は末永く平和を楽しんだ。

そして寛永11年(1634年)甲戌の初冬(10月)22日、世寿80余歳にして、居士はわずかな病(微恙)にかかられ、一度床に伏せると二度と起き上がることなく、その命の舟は夜の谷を流れるように俄かにあの世へと移り去ってしまわれた。

そこで一族は、居士の終の住処(墓所)をこの「洞上(曹洞宗の地)」に占い定め、古刹であるこの「玉雲精盧(龍昌寺)」の丘に厳かに埋葬した(壟之)。これによって、彼を供養するお香の煙(香火)が永遠に絶えない聖地(不朽の地)であることを証明したのである。

今、居士の子供たちや立派な孫たち(令孫)は、だらしなく怠けることなく、まるで雁が美しく列をなして飛ぶかのように一族仲良く並び立ち、親孝行の誠を尽くし、先祖を失った深い悲しみを尽くしている。偉大な祖先の遺徳を慕い続ける心(募蕑心)はいつまでも止むことはない。だからこそ、この素晴らしい歴史がいつか風化して消え去ってしまう(漫滅する)ことを深く恐れ、このメッセージ(銘)を石に深く刻みつけて、その名誉を永遠にこの地に打ち立てるものである。

その詩(銘)に言う。

天下にその名を轟かせた英傑の士よ、 その忠義の心と勇敢な魂(忠肝義胆)は、並み居る諸将の誰よりも優れていた。 黒田藩の幕下にあって、国を支えた最高の大将であり、 それはまるで、漢の高祖を支えた蕭何(蘇)や張良(張)のようであった。 戦場に赴けば、至る所で馬に汗をかかせて武功を立て、 かつてはその甲冑と武器の前に、敵なしと謳われた激闘の功労者であった。 その肉体は今、静かな墓所の片隅から虚空へと去り、 その清らかな魂(玉)がこの池の中に埋まった寂しさを、誰が計り知ることができようか。 しかし、その立派な子供や何千もの子孫たちは、藩の要職(紫府)に就いて栄え、 偉大なる父(阿爺)の遺徳は、万代ののちまでこの「姫陽(姫路・播磨の故郷」に鳴り響いている。 その高貴な英霊は、古くからの地元の守り神である「高蔵廟(高蔵宮)」へと宿り、 その大いなる仁徳は、この先もずっと「遠賀郷」の地から移り変わることはない。 青い海が遥かに広がる垣崎庄の地よ、 青い山が青空に高くそびえる、この「玉雲堂(龍昌寺)」の佇まいよ。 巍然とそびえ立つ一基の宝塔には、ひそかに気高き禅の花が咲き誇り、 居士はあの世で満足そうに「にっこりと微笑みながら(莞爾)」、幸いにもこの真実の悟りの聖地(正覚場)にどっしりと鎮座して我らを見守っている。 そのお姿は、冷たい霜を恐れずに誇り高く咲く「秋の菊」のようであり、その尊き心身(妙体)はどっしりと満ち足りている。 そのお姿は、冷たい雪の中で力強く花を綻ばせる「寒梅」のようであり、そこに宿る仏法(禅)の神髄は、何もしなくとも「自ずから(臫)」気高い香りを周囲に放っている。 この偉大な記憶を永遠のものとするために、文字が擦り切れることを恐れ、 この素晴らしい功績を、永遠に朽ちない甘棠の木(石棠)のごとく、ここに彰かに石碑へと刻みつける。

寛永十一年(一六三四年)甲戌の小春(十月)二十二日。 前の総持寺の格式を持ち、当寺の住職(山に住む)第八世である比丘(僧侶)金峯老、つつしんでこれを記録する】

その肖像もあり。道柏墓の側に弟河村越前之信、その子重信が仮墓あり。【当寺の住僧、追福のため建てしと云う】。寛文五年乙巳、黒田光之より道柏の墳墓に山林七五〇〇坪寄附せらる。安永六年丁酉正月、黒田治之、又、道柏の勲功多くして、子孫なきを憐れみ、当郡熊手村の古開田の内七反の地を寺に施入して、墳墓祭掃の資に充てらる。寺地に観音堂あり。寺後の山に桜樹多し。道柏所栽と云う。【寛永八年の春、道柏家士数輩・僧侶等等を伴い、花を賞せし歌集あり】

末寺五。常楽寺【鬼津村】。洞源寺【三吉村】。栄宗寺【若松村】。禅覚寺【畠田村】。隆守院【吉木村】

  小堂六所

不動堂【宮ノ前】。観音堂【本地堂山】。大師堂【百合野】。地蔵堂二所【相園・関前】。多聞天堂【本地堂山。仏像は銅造にて、高七尺一寸、腰の周四尺五寸。右の手には鉾を持つ。鉾長二尺五寸、柄の長七尺五寸、凡そ一丈あり。銘に延徳三年(1491)3月、須藤駿河守安行寄進の由記せり。即ち高倉神社の旧物なり。近年、ここに遷す】

○古蹟

  伊賀彦宅址

本村の入口、御下と云う所にあり。畑となれり。大和国莵田の人伊賀彦が宅、ここにありしと云う。この邉に昔の宮司職の墓あり。

  宅惣智院址

本村の内、宮ノ前にあり。宗像分限帳に、六段高倉惣智院と見えたり。この寺、廃せしかば、その寺号を宗像郡勝浦村に移せり。不動堂あり。

  千光院址 

本村総智院旧地の北にあり。今もその所を千光と云う。芦屋町須賀神社の宮司千光院、昔はここにあり。宗像分限帳に、六段高倉千光院とあり。【又、分限帳、三町一段高倉千光坊とあり。これは別院なるべし。又、安養院修理修正料五段二石八斗、三郎丸役。高倉社旧記、丈六寺、経会料六段、内三段小、一石八斗六升七合、重富旦過役、二段大、一石四斗九升三合、安永役。同寺燈油料、五段、重富役、今公高、同寺修正料三段小、一石八斗六升七合、五力役。同寺庇修正料、五段 二石八斗、五郎丸役などあり。此等の寺址、今、詳らかならず】

  鐘鋳(かねいり) 

村の南三町、山神山の下にあり。圃の字を鐘鋳と云う。昔、鐘を鋳たる所なり。一面に小石を敷きけり。村民、此所を耕すには、その上に土を持ち掛けて耕せしと云う。今は人家となれり。

〇墳墓

  伊賀彦墓

本村の入口より東十間ばかりにあり。草堂あり。年々十一月五日に、その末裔四戸より祭典を行うと云う。

  大膳塚

村の南五町、宗像郡赤閒駅に越ゆる嶺にあり。伊賀彦の末葉なりし人を葬れりと云う。今は塚なし。大膳の子孫、村中に今もありて、莵田姓を称す。

  首塚

村の西北一町、関前(せきぜん)にあり。麻生氏、吉木村にありし時、ここに関を置けり。何れの時の合戦にか、この所にて戦死の士の首を埋めて、その上に地蔵堂を立てしと云う。

〇人物

  孝子一人

高倉村忠五。文化十三年丙子、米若干を与えて賞せらる。【筑紫遺愛集】

5.附記(物産)

○附記

   物産

一 米     六百三十二石       生出              

一 麦     二百五十三石六斗

一 大豆    十二石六斗二升

一 小豆    四石一斗

一 豌豆    六石五斗八升

一 唐豆        八斗

一 粟     一石二斗

一 蕎麦    四石六斗九升

一 紅花    百目

一 牛蒡    五十把

一 綿     三十二貫目

一 煙草    八十四貫目

一 茶     九十貫目

一 蜜柑    三石六斗

一 桃     四斗

一 楊梅         四石

一 柿     二万

一 梅     二石五斗

一 栗     八斗

一 鶏     百五十羽

一 鶏卵    四千

一 楊梅         三石五斗        輸出

    此代金    十円五十銭

一 柿     一万五千

    此代金   七円五十銭

一 梅     二石五斗

    此代金   一円五十銭

一 栗     六斗八升

    此代金   一円二銭

一 楮皮    三千九百八十七斤

    此代金   六十三円八十銭

一 半紙    四千束            五戸製

    此代金   四百円

一 塵紙    四千八百束                  同上

    此代金   百九十二円

一 煙草    三十二貫目

  此代金   九円六十銭

一 茶     八十貫目

  此代金   十六円

一 鶏卵    二千六百       

  此代金   十三円

一 櫨実    二万五千六十斤

  此代金    百五十円六十銭

一 菜種    六石五斗

  此代金   四十円九十五銭

一 生蝋    二十五丸     波田弥七郎・安部藤五郎 製

  此代金   二百円

一 種油    三石八斗     同上

  此代金   九十五円

総計  金 千三百一円四十七銭 


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