はじめに
建武三(一三三六)年三月二日の「多々良浜の戦い」は、九州の覇権を決定づけ、後の室町幕府成立への足がかりとなった日本中世史の転換点である。 この合戦の記録として最も信頼できるとされる『梅松論』では、「足利方のわずか千騎が、菊池方の六万余騎を、にわかに吹いた北風(神風)により打ち破った」とあるが、この大逆転劇には謎がある。
政治的に後醍醐天皇や肥後の菊池氏が万単位の軍を集めるのは困難であり、さらに六十倍の兵力を逆転するのは軍事的に不自然である。『太平記』や各地の系図を精査すると、『梅松論』にはない「松浦党の寝返り」が記録されており、こちらが実相と考えられる。この合戦を読み解く鍵は、鎌倉幕府の滅亡による情報網の崩壊と、それによるタイムラグに翻弄される北九州の武士(国人)たちの動向、そして東シナ海貿易を巡る利権争いにある。この項では、『梅松論』の記述をもとに、憶測を交えながら、この合戦で何が起こったかを想像していきたい(注、推量の助動詞などは省略します)。

1、連絡網崩壊とタイムラグ
鎌倉時代には伝馬制などが維持され、京都から大宰府までわずか七日で情報が届いたが、相次ぐ内乱で街道の治安が悪化しネットワークは崩壊した。この時期、京都から大宰府への情報伝達は敵方や山賊を迂回するため二十日前後を要していた。激動期において二十日間は世情を激変させる長さであり、出陣を報せる手紙よりも軍勢が早く届くという笑えない事態も起きた。さらに当時の動員には時間がかかり、九州でも「催促から着到」までに十日は必要であった。このタイムラグを時系列に落とすと、博多に集結した武士たちの混迷が見えてくる。
2、時系列で見る武士たちの動向
〇 二月十四日(合戦の十七日前)
「尊氏、京都占拠」の情報と博多集結
大宰府に「足利尊氏が京都を占領した(一月二十四日の事実)」の報が届く。当時、後醍醐天皇の「建武の新政」は、土地の所有権を認める手続き(所領安堵)の遅れなどから、武士の間で不満が爆発寸前であった。そのため迅速な裁定が定評の足利尊氏の勝利は、地方武士にとって救世主に見えた。筑前・肥前の守護少弐妙恵は、管内に「足利方の援軍として上洛する。博多に集まれ」と催促状を発した。武士たちは尊氏から安堵状を引き出すために喜々として集まり、十日後には博多は巨大な集結地となった。建武政権からの上洛命令(綸旨)も救援要請として届いたはずだが、不人気ゆえに多くは黙殺され、従ったのは少弐に怨恨のある菊池・阿蘇などわずかであった。
〇二月二十日(十日前)
「尊氏敗北」の報による混迷
筑前・肥前の武士が博多に集まり始めた頃、「尊氏が京を追われ、西国へ逃走中(一月三十日の事実)」という新たな情報が大宰府に届く(驚くべきことに尊氏は二月二十日に赤閒関に到着している)。守護の少弐妙恵は情報を伏せ、嫡男の頼尚に少弐の主力五百騎を付けて尊氏護衛に派遣した。しかし、数日中に噂は広まる。武士たちは「自分たちは本領安堵どころか、反逆者として土地を没収されるのではないかと」と疑心暗鬼に陥った。
〇二月二十九日(二日前)
少弐妙恵の自刃とリーダーの不在
菊池軍主力と共に在京中の惣領武重や伊予の河野氏から正確な情報を受け取った宮方の菊池武敏は、留守部隊の二、三百騎を率い電撃的に北上した。少弐氏と反目する三原氏や秋月氏と合流し、二十七日に筑後で少弐妙恵勢を撃破、二十九日には大宰府の有智山城を攻めて筑前守護の少弐妙恵を自刃させた。博多集結中の国人たちは突如としてリーダーを失い、取り残された。
3. 菊池軍「六万騎」の正体
三月一日(前日)、博多の武士たちは進退窮まった。「守護の少弐氏が滅び、頼みの尊氏も敗走中、菊池軍が博多に来襲」という現実を突きつけられたからである。「足利のために集まった」と知られれば、領地没収や一族皆殺しになりかねない。
尊氏は赤閒関(現在の下関)到着の二日後、九州の武士にとっては魅力的な「没収地返付令」を出していたが、まだ関門海峡の向こうにいる。菊池勢はすでに博多に来た。ここで国人たちが取った自己防衛策は、異口同音に「最初から宮方(菊池方)として馳せ参じました」というポーズを取り、菊池の陣営に加わることだった。
これが、菊池氏の催促では集まるはずもない大軍がにわかに多々良浜に出現した背景である。実態は情報のタイムラグと守護少弐妙恵の自刃により梯子を外され、生き残るために菊池に降った少弐管下の武士たちであった。
4. 前陣の「菊池戦士」三百と後陣の「六万のギャラリー」
三月二日、多々良浜で博多側の菊池武敏軍(実数は一万人前後か)と、宗像から南下した足利尊氏軍(約千騎)が対峙した。注目すべきは、菊池軍の布陣である。

強制的に巻き込んだ戦意の低い混成部隊を最前線に置けば、激突時に逃げ出して全軍崩壊するか、寝返る危険がある。したがって武敏の布陣は、必然的に以下の二層構造になる。
・前陣 菊池一族・阿蘇の精鋭と三原 秋月の(三百~四百騎)
・後陣 博多で吸収した戦意の低い筑 前肥前の国衆(一万~六万?)
足利方の先陣は、宗像大社から急行した歴戦の足利本軍と九州の諸将を、弟の直義が率いた。右翼は前夜、戦場に近い簑尾浦(現福津市)に宿陣していた少弐頼尚の五百騎が展開。本陣は少数だったらしく尊氏とその側近だけだったように思えるがよくわからない。
武敏の作戦は、精鋭の先陣が足利を叩き潰す圧倒的な勝ち戦を後ろに見せつけ、日和見のギャラリーを巻き込むという、ある意味ギャンブルであった。そして、この致命的な弱点を見抜いていたのが少弐妙恵の息子・頼尚であった。頼尚は尊氏に「敵は大勢に見えるが、みな管下の筑前・肥前の武士。本当に戦う気がある菊池の軍勢は三百騎に過ぎない」と断言し速戦を主張した。
少弐氏は元寇以来、北部九州の武士を統率する三前二島の守護だったため、彼らの心理を熟知していた。「後ろのやつらは戦う気がない」と看破したからこそ、足利軍は数の差を恐れず開戦に踏み切れた。
5. 国人たちの戦意の無さ
〇 仁木義長の敵陣突破と「北風」
合戦が始まると前線で凄絶な白兵戦が展開され、戦況は一進一退のまま泥沼化した。この膠着を破ったのが足利方の猛将仁木義長である。義長は菊池勢の東側を猛攻、「筥崎松原から博多の須浜」を突破し、自陣に戻ってきた。
重要なのは、この突破されたエリアが、松浦党ら日和見の武士たちが後陣として控えていた場所だったことである。もし後陣に本気で戦う者がいたなら、少数の義長軍など一瞬で圧殺できたはずだが、彼らは一切手出しをせずやり過ごしている。
支援のない菊池の精鋭はやがて疲弊して後退し始める。怒った武敏は決死の覚悟で旗本と足利直義の陣への突撃を敢行し、直義を壊滅寸前まで追い詰めた。直義は兄尊氏の身代わりとして討死することを告げるため、錦の直垂の袖をちぎって送った。弟思いの尊氏は自ら本陣の兵と共に救援に突撃した。
そこへ、博多湾から南へ猛烈な「北風」が吹き荒れ、干潟の砂塵が菊池軍の顔面に吹き付けた。新手の突撃と砂嵐は前線の菊池軍の足を止めるだけでなく、後陣の日和見武士たちに、撤退や裏切りに踏み切る絶好の言い訳を提供した。
〇 寝返りのドミノ倒し
足利方が勢いを取り戻したと見るや、突如、後陣の松浦党が菊池軍の背後に襲いかかった。この鮮烈な裏切りを待っていたかのように、周囲の松原にいたその他大勢の日和見武士たちは堰を切ったように前進し、「松浦党が裏切ったぞ、俺たちも菊池を討て」と呼応した。戦場全体が凄まじい「寝返りのドミノ倒し」を起こし、数万のギャラリーは一瞬にして菊池軍を噛み殺す包囲網へと変貌した。
こうして多々良浜の戦いは最終的には足利方の圧倒的な勝利で幕を閉じた。『梅松論』が語る神風の裏には、情報のタイムラグに踊らされた人々の錯誤と、現実的な利権闘争が隠されていた。武敏は肥後へ逃れたが、副将の阿蘇惟直は肥前の天山で自害、秋月は大宰府で捕らえられ討たれた。少弐氏による大宰府回復は迅速で、同日夜には足利直義と少弐頼尚が大宰府に到着し、妙恵の切腹跡を見て涙を流している。

【 「少弐武藤系図」 みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」より転載】
赤線は、有智山城で討死した少弐一族(筆者加筆)
6. 松浦党の裏切りの要因
ー東シナ海貿易の利権と博多ー
松浦党が菊池氏の背中を撃ったのは、単なる保身ではなく、東シナ海における海外貿易の主導権を巡る長年の激しい対立関係が存在したからである。当時の国際物流において、北九州の海の勢力は一つの「海上経済共同体」を形成していた。
松浦党(ナビゲーター)
中国の貿易船(大型ジャンク)を五島や平戸で迎え、国内の政治や物価情報を伝えつつ博多まで安全に水先案内する。
少弐氏・博多の寺社(貿易のオーナー)
少弐氏が貿易港「博多」の街や関税を管理する。承天寺や聖福寺などの大寺社が資本を集め、貿易船のオーナーを務める。
宗像氏・麻生氏・門司氏(国内流通)
博多に到着した中国製品(宋銭や陶磁器)を買い取り、瀬戸内海を通って巨大消費地である京都(京畿)まで運送・販売する。帰路は木材や硫黄を唐船に積み込む。
このように、松浦党が連れてきた船を少弐氏が博多で管理し、宗像・麻生が国内でさばくという強力なビジネスの共生関係があった。
これに対し、肥後の領主である菊池氏は、菊池川河口の港・高瀬(熊本県玉名市)を拠点として、東シナ海航路を有明海側に呼び込もうとする「新興のライバル商社」であった。
松浦党や少弐氏からすれば、菊池に博多を占領されれば中国貿易の主導権も関税利権を奪われ、海の帝国が崩壊してしまう。宗像や麻生にとっても同様である。彼らにとって菊池氏は、新しい世を創る同志ではなく、自分たちの既得の経済基盤を破壊する「ビジネス上の敵」でしかなかった。

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