【解説】 蘆の芽吹くとき①

→【小説】蘆の芽吹くとき

ー 六波羅探題滅亡と麻生宗教 ー 

鎌倉末期の山鹿・麻生氏に関する文書は残念ながら存在しない。それどころか『太平記』や『梅松論』などの軍記的史料にも一切登場しない。したがって、「蘆の芽吹くとき(1)」に登場する人物像はすべてフィクションであることを前もって告白しておきたい。
  だが、いくら素人小説といっても、全てがデタラメではない。日時は当時の記録を忠実になぞり、主な登場人物名は「麻生文書」や「尊卑分脈」にある実在の人物とした。ただ、帆柱山合戦については、同時史料がないので、やむを得ず江戸期の『歴代鎮西史』を参考とした。

この物語の主人公は麻生家宗、のちに出家して宗教と名のる人物である。宇都宮系山鹿氏の祖家政から数えて六代、有力庶家の麻生氏が起こってからでもすでに四代目の当主である。
 年齢を「四十をいくつか越えている」としたのは、麻生文書4号(建武3年7月14日付足利尊氏袖判感状)の時点で、宛名が法名の宗教になっているからである。当時は40歳くらいで「入道成」と称して出家して息子に家督を譲り、新当主を後見する習慣があった。

家宗が当主になった頃、日本全国は緊張状態にあった。世祖フビライはすでに崩御したものの、九州の武士たちはモンゴル軍の3度目の来襲に備えて異国警固番役を勤仕し続けていた。執権北条時宗もすでになく、嫡男貞時は父の独裁体制を目指して北条氏の有力庶家を圧迫し、失敗すると政治への意欲を失って酒と田楽に溺れる生活を送っていた。没後、子の高時が得宗に就任したが生来病弱で、幕政は北条の有力庶家や内管領長崎氏の寄合による前例踏襲主義によって運営されていた。

朝廷も承久の乱以後は武力を失い、京都の治安維持さえ幕府に頼らざるを得なかった。皇統も持明院統と大覚寺統に分裂し、公家の人事も含めて、幕府の後ろ盾があって初めて天皇・公卿が決定する有様だった。後世、この状態は執権の専横が作り出したとして北条氏は指弾されることになるが、幕府や北条氏が望んだわけではない。内裏に群がる諸勢力が、嫌がる幕府に無理矢理に諮問し答えを引き出したのである。返答は常に「仰せのままに」でしかなかったが。

 この作品を書くきっかけは、『梅松論』の足利尊氏が九州に下向するくだりで、「同(二月)廿九日赤間の関よりまた御船を出さる。内海行程一日、筑紫の筑前の国芦屋の津に着給ふ」という一文を見たからである。「内海行程一日」は通常「瀬戸内海を一日で行くほど速く」と、文学的比喩として解釈するらしいが、北九州に住む私にはどうしてもそう読めない。「赤間の関(下関)から芦屋に一日で行く内海」といえば洞海湾が目に浮かんでしまう。比喩など必要ない。そして洞海湾の主は山鹿・麻生氏なのである。

周知の通り、洞海湾(古名:大渡川)は、明治までは身長より高い葦が繁茂する湿地であった。その中を抜け道のように細い水路が通っていた、その水路を進むには山鹿・麻生氏の協力が不可欠で、当然、両氏と尊氏は下向以前から協調体制にあったことになる(南北朝時代の守護には、自分の一族郎等以外を動員する権限がなかった)。

では、尊氏に渡りを付けたのは山鹿(惣領家)か、麻生(庶家)か。「それは、いつ?どこで?」と、とめどもなく疑問が広がる。以下は、その疑問に対する私なりの解答である。
 なお、麻生文書の番号には「九州史料叢書(九:NO)」と「北九州市立歴博物館中世史料集麻生文書 (北:NO)」の二種類があるが、ここでは基本的に北九州歴史博物館の文書番号を用いることとする。

1. 足利氏に渡りを付けたのは、麻生氏  ― 山鹿・麻生氏の分業 ―

鎌倉時代の御家人は一族兄弟で「在地」と「在京」を分業した。東国であれば鎌倉と京都、九州であれば博多と京都の大番役を分担したのである。山鹿氏の場合も、「惣領家(山鹿)」と「庶家(麻生)」の間で役割分担が存在した。

〇 山鹿惣領家は在地でモンゴル軍に備える
 惣領家は、幕府からの命令で「異国警固番役」を現地で指揮・遂行するため、筑前に留まらざるを得なかった。これは在地での領主の権威を維持する一方で、中央の政治動向から隔絶されるリスクを伴った。


〇 麻生氏は六波羅で在京人を務める
 
山鹿氏の有力庶家である麻生氏は、得宗家あるいは北条氏の有力庶家の被官として(麻生文書北:1.2.3号)、京都の六波羅探題に派遣され、「在京人」として活動していた可能性がある。
 在京人は寺社の強訴阻止や篝番(かがりやばん)として都の治安維持などに従事したが、当時の記録によれば、実際に僧兵との戦闘に加わるのは北条氏被官のみで、その他有力御家人から派遣された在京人は見物するか逃げるかだったらしい。
 北条氏被官であった麻生氏は、京都の最前線で最も危険な任務をこなしていたことになる(麻生文書北:3号有川解説参照)。いちおう九州での異国警固番役は免除されていたが、物価の高い京都に、自費で長期間滞在せねばならず負担は重かった。だが、上級武家や公家の被官になるなど(当時は兼参といって、複数の主人をもつことは珍しくなかった)、中央権力との私的なパイプを強め、幕府や朝廷の最新情報を得る利点もあった。

麻生文書北1号
麻生文書北3号
麻生文書北2号
『尊卑分脈』山鹿氏系図

2. 鎮西の軍事指揮権は、足利尊氏が自力で獲得

1960年代、佐藤進一氏は、建武政権期に尊氏が後醍醐天皇から鎮西の軍事指揮権を正式に委任されていたとし、長く定説とされてきた。しかし、近年の研究では、尊氏の発給した軍勢催促状が、建武政権の公式なルートを経ない「私的な命令」としての性質を強く持っていたことが指摘され、尊氏の九州軍事指揮権は、天皇から法的に付与された「職権」というより、尊氏が自力で組織した「実効支配力」を政権が追認せざるを得なかったもの、と再定義されている。
 実際、東国出身の北条氏被官は近江国番場宿で全滅しているが、西国・鎮西の北条氏被官が殺戮された形跡はない。おそらく、どこかの段階で足利尊氏の軍勢に吸収されたのであろう。
  麻生家宗も京都のどこかで足利尊氏にスカウトされた可能性がある。無論、戦前戦後の平和な時に渡りを付けたかもしれないが、ここは劇的オープニングにするために六波羅探題滅亡直後の京都での出会いとした。

3. 規矩高政の乱(帆柱山合戦)とは

建武元年(1334)春、北条氏再興を掲げた規矩高政・糸田貞義らが挙兵した。遠賀郡の帆柱山城に拠り、宇都宮系山鹿氏や豊前勢がこれを支えた。『太平記』に「筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云う、平氏(北条氏)の一族出で来て前亡の余類を集め、所々の逆党を招きて国を乱さんとす」とあるのがそれである。筑前「中村文書」・肥前「深堀文書」、豊後「田口文書」などからも、この年に北部九州で大規模な戦役があったことは確実である。合戦の詳細は伝わらないので、ここでは江戸中期の軍記『歴代鎮西志』を参考に関連年表を作成してそれにかえた。ともあれ、麻生家宗(宗教)は、この時期から山鹿氏と袂を分かつのである。

元弘3年(1333)

 3月13日  菊地武時、博多の鎮西探題北条英時館を襲撃して敗死

 3月16日  肥後国守護規矩高政、菊地・阿蘇討伐に発向  

 4月 4日  規矩高政、阿蘇惟直・菊地武重を日向鞍岡城で破り、博多に帰還

 5月 7日  六波羅探題滅亡

 5月22日  鎌倉幕府滅亡

 5月25日  鎮西探題滅亡(規矩高政は芦屋に潜伏)

建武元年(1334)

 1月      規矩高政、帆柱山で挙兵。山鹿・弓削・宗氏らが入城

          宗像氏範、帆柱山城を単独で攻めるも、長野氏の後ろ詰めにより敗退

 3月      筑前・豊前国守護少弐貞経が陣頭指揮を執り、宗像・秋月・松浦など大軍で包囲

          麻生は少弐側として参戦

 7月      帆柱山城落城。規矩高政は所領がある虹山城(小倉南区)に遁れる

 8月      虹山城落城。規矩高政自刃(薩摩国に遁れたとする説もある)

4. 遠賀川流域領主の海域支配

長沼賢海氏は、山鹿・麻生氏を「海賊的領主」と位置づけた。これは単なる略奪者という意味ではない。遠賀川河口から響灘に至る海域において、「警固(海上警備)」「水先案内」「寄船(漂流物収得)」といった諸権益を管理する「海域の調整者」であったことを意味する。

国際物流の要衝 「響灘」

博多に荷揚げされた舶来品(唐物)を中央へ運ぶ際、唐船(ジャンク)から和船に積み替えられた物資は、必ず彼らの勢力圏である響灘を通過する。山鹿惣領家は警固料の徴収や過書(通行許可証)の発給、良質な舶来品の優先買い付けによって莫大な収入を得ることができた。ただし、その多くは地頭職である北条氏に吸いあげられるため、麻生氏のように過書を発給できない下請の庶家の場合、手許に残る分は僅かであったから、惣領家よりも北条氏への不満はたまりやすかったであろう。

また、同族といえども、惣領家や他の庶家所属の海民に独断で命令を下すことは、当時の法慣習上は認められなかった。麻生宗教の場合、その祖・資時と同じ領地であったとしても、海民が居住するのは戸幡浦しかなく、洞海湾内の本城・若松・修多羅・藤田の各塩浜や惣領家が管理したであろう江川水路や山鹿津などの海民を使役することは越権行為(濫妨)であった。他氏においては、相論や戦闘に発展することもしばしば見られる。宗教が一族を憚ったのも当然である。

※ 戦国時代の九州北部の日朝貿易航路図。九州に拠らずに直接本州に向かう航路は戦時など臨時の航路であった可能性が高い。博多から瀬戸内海に向かう航路はすべて響灘を通過する。

参考

『梅松論』33 足利尊氏、九州到着の場面(原文)

うきながらつれなく、いきの松原の生きて帰らん事はしらねども、日数へぬれば、建武三年(1336)二月廿日長門国赤間の関に波風のわずらひなく御船着き給ふ。

同廿五日太宰少弐筑後入道妙恵が嫡子頼尚・兄弟一族等、五百余騎にて御迎の為に参りて、両御所(=尊氏・直義)へ錦の御直垂を調達す。御方の大慶此事ぞ見えし。

同廿九日赤間の関よりまた御船を出さる。内海行程一日、筑紫の筑前の国芦屋の津に着給ふ。秉燭(へいしよく)(=夕方)の時分に妙恵、この暁内山(=有智山)において自害す。

『梅松論』15 六波羅探題滅亡の現代語訳        

https://toracha.comから転載

後醍醐院側は三手に分かれて六波羅探題を攻めた。尊氏の先陣は内裏南東の神祇官の前で東向きに控え、六波羅勢は白河を上り二条大宮を隔てて西向きに控えた(現在の二条城内敷地内西側あたりで対峙)。

午前8時頃、両軍進軍し鏑矢の音が響き渡る。開戦の合図である。鬨の声も遠くまで聞こえるほどであった。入り乱れて今日が最後の命と覚悟を決めて両軍戦う。馬の足音。矢の空を斬る音。天にまで響き地を揺るがすほどの激戦となった。入れ替わり立ち替わり進退が何度も繰り返され、命を落とした者は数しれず。中でも、将軍の御内人の五郎左衛門尉が敵陣に真っ先に駆けて討死したのは印象深い。関東将軍への忠節を示した行動として感慨深いものである。

午後2時頃、尊氏側軍はこの戦に勝利し、六波羅勢は撤退した。また、二手目の千種忠顕の軍は伏見竹田より攻め入った。三手目の赤松則村の軍は東寺より攻め入り、九条あたりにおいて戦闘が数箇所で繰り広げられた。後醍醐院側の寄せ手が洛中へ乱れ入ったので六波羅勢は堪えきれず六波羅探題に撤退し籠城した。お家を思い武功を立てたい勇者どもは六波羅探題から打って出て戦う、といったことを繰り返すこと7日に及んだ。                       (後略)

※ 南北六波羅探題は、平家の根拠地跡に建設されました。現在の祇園・建仁寺から三十三間堂にあたります。将軍御所があったとする説もあります。

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