中学校の教科書にも記載される「承久の乱」であるが、かつては東日本(幕府)と西日本(朝廷)の対立ととらえられてきたため、北部九州にどのような影響があったかを研究した著作は管見の限りほとんどない。本稿は、「宗像神社文書」を基本資料として、当時の北部九州の状況を探ってみたものである。
1.承久の乱の経緯 ― 新研究から -
承久三年五月十四日、後鳥羽上皇は鳥羽城南寺に「流鏑馬汰(そろへ)」と称して、東は美濃、西は但馬に至る十四ヵ国の兵千七百余騎を集め、三浦胤義の説得により三ヶ月前に上洛したばかりの京都守護大江親広(大江広元の長子)を味方に付けることに成功した。(『承久記』上ほか)。
翌十五日には、執権北条義時を追討し、全国の守護・地頭(幕府御家人)を院庁の統制下に置くとの院宣および官宣旨を発するとともに(慈光寺本『承久記』上)、召集に応じなかったもうひとりの京都守護伊賀光季を襲って自決させ、幕府と親しい西園寺公経父子を幽閉した。
光季、公経の家司三善長衡が発した急使は、五月十九日鎌倉に到着、変報に接した幕府では、北条政子の演説で御家人の結束を訴え、大江広元の建策を容れて積極策に転じ、直ちに西上軍を発遣、信濃・遠江以東十五ヵ国の御家人に動員令を下した。上皇が有力御家人に発した院宣も伝達前に使者がとらえられて届くことはなかった。
幕府軍は、北条泰時・時房らを大将軍とする主力東海道軍十万余騎、東山道軍五万余騎、北陸道軍四万余騎、都合三軍、十九万余騎が京都に向かった(実数は二万程度と推察されている)。

対する上皇軍は二万数千(実数は数千か)、院の近習、北面・西面の武士、検非違使、院分国・院領の兵士、北条氏への不満分子、僧兵の一部、そして九州を除く西国三十二ヵ国中十八ヵ国の在京の西国守護が参集した。
後鳥羽院挙兵当初の軍議は楽観論が支配し、幕府の自滅を期待するのみで有効な対応策を講ずることなく、幕府軍西上の報に接して急遽防戦のため美濃に派遣した藤原秀康・三浦胤義らの主力は、六月五日・六日幕府軍の前に潰乱して敗走、加賀砺波山での戦いもまた同様であった。上皇はみずから武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めたが失敗、最後の一戦を宇治・勢多に試みるも、激戦後の六月十四日に防禦線を突破され、翌日京都は幕府軍の占領するところとなった。挙兵からわずか1ヶ月後であった。
戦後処理は北条泰時(義時の子)と時房(義時の弟)を首班に速やかに行われた。乱の主謀者は死罪(上皇の側近や有力武士)または流罪(上皇と天皇)とされ、積極的に関与した者の領地は没収された。その総数は四千箇所以上で平家没官領の五百箇所を遙かに超え、それらの地は恩賞として御家人たちに分け与えられた。また東国在住でありながら従軍しなかった者もわずかだが所領を減らされた。
2.後鳥羽上皇の思わくと軍の実像
かつて承久の乱は、階級闘争的に公家の西国と武家の東国の戦いとして語られることが多かった。
だが最近では、乱そのものは後鳥羽上皇(右図)とその側近および北条氏への不満がある一部の武士の企てにすぎず、摂関家や大臣家などの上級公家は沈黙あるいは静観していたことが明らかになってきている。

また、軍の主力とされてきた北面・西面の武士は親衛隊規模の小軍団に過ぎず、院政期に活躍した京武者たちも弱体化しており、実際の主力はたまたま大番役で在京していた西国守護や御家人たちを、院政期以来の伝統で上皇が臨時に召集したものが多かったことが分かってきた。(長村祥知「中世前期公武関係の研究」)
源頼朝以来、頼家・実朝死去に至るまで、京都の朝廷と武力の権門鎌倉幕府の関係が良好であったことを思えば、幕府の勢威が増すのを院が憎んだとするかつての通説は説得力に乏しい。尼将軍政子が御家人たちを前に訴えた、上皇の愛妾亀菊の所領における地頭撤廃問題が乱の主因であるとする説も、この乱の要因をゴシップにすり替えようとしたものといわざるを得ない。
では、承久の乱の主題(=後鳥羽上皇の思わく)は何か。それは幕府を滅ぼし政権を取り戻すことではなく、院宣にあるとおり執権北条義時を排除して執権制を廃し、さらには近臣を鎌倉に送って、幕府を院のコントロール下に置くことであったと考えられる。
承久3年4月28日、後鳥羽上皇は院御所に北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京武士らを集めた。その中に幕府の有力御家人である尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義があったが、その兵数は千余騎に過ぎず鎌倉を攻め滅ぼす意図があったようには思えない。
かつて源頼朝は朝廷を尊重し公家への奉仕を怠ることがないよう再三御家人に通達を出しており、それは頼家・実朝にも引き継がれた。5月14日、上皇が3ヶ月前に鎌倉から上洛したばかりの京都守護大江親広(大江広元の長子)を味方に付けることに成功したのは、頼朝以来の対京都方針があったゆえであろう。そのうえ従軍する者には上皇方から多額の支度金が支払われており(「賀茂文書」)、在京武士にとって上皇の動員に応じることは名実ともに利のあることだった。
しかも、それを断ることは命を失う覚悟が必要であった。実際、河内国甲斐荘の下司国範は院方に動員されたが、国範は「武備の器」(武力にすぐれた器量)ではないからと高野山に逃れたが、院方の武士に家を焼き払われたという(「宮寺縁事抄」(『鎌倉遺文』七))。
翌5月15日に伊賀光季(義時の室、伊賀の方の兄)が招聘に応じず討死したのは例外的な行動と見なすべきで、在京御家人たちが飴と鞭の動員戦略の中で院に参陣することになったのは無理からぬことである。
(写真は「鎌倉殿の13人」の伊賀の方と北条義時)

3.院と幕府の動員範囲
前述したとおり、上皇の動員は北面・西面の武士を除けば畿内近国に限られ、幕府のそれも東国の東山道・東海道・北陸道に終始した。つまり、東北・九州はこの乱においては蚊帳の外にあったことになる。確かに両地方で乱の戦闘に参加したことを示す一次資料はほとんどないと言っても過言ではない(『吾妻鏡』に見える遠賀郡の香月氏は西面の武士である)。
では、承久の乱の時期、北部九州の人士は平和を享受したかというとまたそうでもないようである。以下、宗像神社文書に見える豊前国の宇津宮信房と筑前国の宗像氏国の動向を中心に乱の北部九州への影響を述べることとする。
4・承久の乱の北部九州への影響
(1)宇津宮信房

豊前宇都宮氏の祖。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。宇都宮氏の祖である藤原宗円の次男中原宗房の長男。治承4年(1180)、下野国から源頼朝の挙兵に参陣する。同7年(1183)、志田義広の謀反の際は義広討伐で功を挙げた。これらの功績により 元暦2年/文治元年(1185)から文治2年(1186)にかけて恩賞を与えられている。翌3年(1187)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島の平氏残党討伐で功績を挙げた。建久3年(1192)には豊後国・日向国内において所領を与えられた。 【Wikipedia】
承久の乱においては幕府方として参戦し戦功を挙げ、乱後、筑前国宗像社領内の高向・無留木・宮田の地頭職を与えられている(「みやこ町デジタルミュージアム」「宗像文書」)。
ところで、信房はどうやって参戦することができたのだろうか。九州の御家人は原則として自分の領地がある九州あるいは大番役等で京都にいる可能性が高い。しかし、豊前国にいても京・鎌倉からの軍勢催促は来ないし、たとえ情報がもたらされて独断で出陣したとしても上皇方の支配下の畿内に入ることは難しい。「尊卑分脈」にあるように所衆(ところしゅう:蔵人所所属の武者)あるいは御家人として大番役を勤仕中であれば在京していた可能性もあるが、だとすれば上皇方の催促に応じるか、断って討死あるいは命からがら脱出するしかあるまい。
であれば、もし参戦したのが事実とすれば信房は乱の勃発時に偶然鎌倉にいたとするしかない。信房はこの頃大和守に任官しており、後に評定衆に列せられているので、日常から鎌倉に宿所をもち幕府の運営に参画できる立場にあった可能性は高い。
宇都宮氏の惣領頼綱にも義時討伐の院宣が送られたが、届く前に使者が捕らわれ、ついにそれを見る機会はなかった。頼綱は宿老とともに鎌倉の留守居を命じられたものの、宇都宮一族は幕府軍に加わり上洛して上皇方と奮戦した。あるいは信房が陣代あるいはそれに準ずる者として一族を率いて戦い、その恩賞として高向・無留木・宮田の地頭職を与えられたのかも知れない。
(髙向は宗像市田野、無留木は鞍手郡鞍手町室木、宮田は宮若市に比定されている)
(2)宗像氏国
平安時代末期から鎌倉時代前期の筑前国の鎌倉御家人であり宗像大社大宮司である。
治承・寿永の乱時には、白山城に居城を構えて宗像地方の中央部(現在の宗像市・福津市・宮若市・鞍手町の半分・岡垣町内浦郷)を支配した。鎌倉幕府成立後の文治5年(1189)に宗像大社大宮司に任じられ、建久5年(1194)と建暦3年(1213)と建保6年(1218)の三回にわたり同職に還職した。貞応元年(1222)7月27日、鎌倉幕府から大宮司としての支配権を認められる。1232年に同職を宗像氏経に譲って辞職した。【Wikipedia】

氏国の父宗像氏実は、壇ノ浦合戦において平家を裏切って源氏方として戦ったと主張するが、これは客観的な情勢からみて疑問がある。宗像社に平家没官領として置かれた地頭が廃止されたのは平家滅亡の2年後(文治3年)のことで、本家の八条院の申し入れによることは明らかである(「筑前宗像神社文書」鎌倉遺文256号)。その2年後、氏国は氏実に宗像大宮司職を譲られて御家人となった。
その後氏国は上述の通り大宮司職の譲渡と還補を繰り返した。地誌等で承久の乱においては「宗像氏国は承久の乱において幕府方として戦った」との記述をしばしば目にするが、根拠とされる宗像氏国譲状案(筑前宗像神社文書2778号)には「氏国為令遂上洛」とあるきりで参戦の証拠となる記述はない。なによりこの文書の日付は「承久3年7月18日」で、京都はすでに戦後処理の段階にあり、幕府軍の入京から1ヶ月以上が経過しているので、急いで上洛しても戦闘には間に合わない。後鳥羽上皇(出家して法皇)は同月13日に配流先の隠岐に向けて出発し、葉室光親ら院の近臣たちは鎌倉への護送中に処刑された(『吾妻鏡』承久三年七月十二日)。
では、氏国は何をしに京都に上ろうとしたのだろうか(実際に上ったかどうかはおいておく)。
注目されるのは、建保年間から承久三年にかけて毎年のように大宮司職が改替されていることである。宗像氏は当時大宮司職をめぐって一族内で紛争状態にあり、強い後ろ盾を得た者が大宮司職に就く様相を見せていた(野木雄大「宗像大宮司家における鎌倉の御家人化の動向」)。
特に、院近臣で宗像社領家職の葉室光親の一派(後鳥羽上皇が後ろ盾である)は強力だった。建保三年(1215)の「光親による大宮司職押領」についての相論では、同五年(1217)の鎌倉幕府による裁定により氏国の大宮司職が安堵されたものの、それ以後も郡内での抗争は続き、承久元年(1219)には元大宮司宗像氏重が氏国方に夜討ちをかけている(宗像神社文書)。
だが、葉室光親は承久の乱の最高幹部として処刑された。氏国の上洛の目的は、子息の氏業に大宮司職を譲って継承関係を一本化し、そのうえで幕府の承認を得て、混乱した領内を再編成しようとすることであったと思われる。
乱の後、宗像社は八条院領(順徳上皇領)として没収、将軍家領(関東御領)となり、三浦泰村(義村の子)が預所職に就任する。さらに、宗像社は氏国自ら望んで将軍家のために祈祷を行う関東祈祷所となり、社領内の朝町は上野介資信(北条家庶流佐々目氏の舅)に、高向・無留木・宮田は大和入道(宇都宮信房か)に与えられた。
これらの処置は氏国自ら幕府の保護下に飛び込んだとも考えられるが、印象としてはやや宗像社に厳しすぎるようにも感じる。
この乱の戦後処理では、乱の主謀者とされた上皇や公家の領地は没収されたし、京方として戦闘に参加した武士の所領も同様だった。しかし、そうであっても一族が鎌倉方として従軍していれば、本人は何らかの罰を受けるにしても一族は宥免された。鎌倉と京都に分業する武士が多かった当時の御家人の実情を考えれば現実的な判断と言える。また、関東の御家人にも従軍しなかった者は少なからずいたが、罰則はわずかの田畑の没収や科料で済んでいる。
まして京都・鎌倉の双方から動員がかからなかった九州である。従軍せずとも罰せられる気遣いはない。ただ、乱が始まった際、宗像社の領家職は葉室光親、本家は順徳上皇(実質は後鳥羽上皇)だから、京に一族の誰かが在住し、周囲の情勢からいたしかたなく上皇方として参戦した可能性もある。いささか厳しめに見える宗像社への処分と氏国わざわざの上洛は、そのことがあってかとも思うが、これ以上は憶測が過ぎるようだ。
(3) 山鹿時家
(『尊卑分脈』では山鹿家政の子)
以上述べてきたように、北部九州は承久の乱の埒外にあり幕府や後鳥羽上皇からの動員が及ぶことはなかったと思われる。無論、惣領である時家や一族が偶然大番役等で在京していた可能性はあるが、地頭職は鎌倉将軍家あるいは一品房昌寛家や北条氏などの有力御家人などの鎌倉方で、領家職・本所職は後鳥羽上皇らの企てを静観していた摂関九条家であったとされており、上皇方として従軍する必然性は低い。
ただし、近隣の香月氏は西面の武士として上皇方で参戦し香月郷の領地を没収されているので(後に返付)、恩賞として香月郷を与えられた信濃国御家人中野助能が下向するまで一時的に管理を委託されたり、香月氏の領地の一部を与えられたりした可能性もなくはない。しかし、そのことを示す史料は皆無である。(あるいは「竪系図」の「承久の御下知」の註記はその辺のことを暗示しているのかもしれない)。
時家の生前の史料はまったく残っておらずその実像は憶測するしかないが、没したのが建長元年(1249)であれば(「建長元年北条時頼袖判下文」)、生年は西暦1200年前後と推測され、承久の乱の時はまだ20歳前後の若武者であったろう。父家政は平家滅亡直後に山鹿庄に赴任していたと考えられるので、時家は遠賀郡で誕生した可能性が高い。父の代においてはいまだ山鹿兵藤次秀遠の残存勢力の影響が強かった北九州沿岸も、このころにはようやく関門地域と博多を結ぶ航路を掌握することができるようになり、宗像氏と提携して日宋貿易のジャンク船に輸出品(帰路は輸入品)を運ぶ業務に従事していたかと思われる。ただし、玄界灘・響灘の領袖ともいうべき宗像氏が公武の間で揺れ動いた時期だけに、その経営には政治的困難が伴わざるをえなかったであろう。
【まとめ】
承久の乱において、北部九州は鎌倉の北条氏や京都の後鳥羽上皇の動員範囲外にあり、直接の戦場となることはなかった。しかし、順徳上皇(後鳥羽上皇の子)を本所と仰ぐ宗像社は領家である葉室光親の影響で一族が分裂しており、大宮司氏国は乱後に上洛して大宮司職の安定を図らざるを得なかった。また、偶然大番役で在京していた者や鎌倉に宿所を持っていた者は、乱に巻き込まれて戦闘に参加し賞罰の対象となった者もいた。ただし、宇都宮系山鹿氏の時家のように北条氏や摂関家とのつながりが強かった者は、たとえ在京していても参戦する必要がなく、大きな影響を受けなかったと考えられる。
附録:後世の編纂物も含めた山鹿時家の履歴

【尊卑分脈】 室町時代
山鹿左衛門尉。法名西念
【竪系図】 戦国時代
法名西念
【一代】 江戸時代
法名西念
【隆守記】 江戸時代
山鹿左衛門。近江守。従五位下。仁治二年(1241)、麻生に改姓す。麻生上総介と号す。後に入道二郎。号は西念。宝治二年(1248)八月二日卒す。号は孝応寺殿西念明山大禅定門。母は一品房昌寛の女。妻は大納言平時忠末女。宝治二年(1248)十一月二日同郡熊手村に卒す。紅梅地蔵尊と崇む。
【麻生系譜全】 明治時代
二郎入道。近江守。宝治三(1249)年八月二日卒去。孝応寺殿白蓮明山禅定門と号す。寺不詳。女房は阿蘇三郎の女。後室は少弐資頼の女。
【八幡市史 戌系図】 昭和時代
法名西念。建長元年の古文書に二郎入道西念とみゆ。
【北九州市史】 平成時代
尊卑分脈にも家政の子で山鹿左衛門尉、法名西念とみえる。麻生文書の北条時頼袖判下文に「二郎入道西念」とみえる。
【追記】
麻生文書や後世に編纂された軍記類にも、宇都宮系山鹿氏と承久の乱の関連を示す記述は皆無で、せいぜい「法名西念」の名のったことしか分からず、それ以外の情報の信頼性は低い。
竹中岩夫氏や有川宣博氏の研究により、山鹿系図の中で最も古く信頼性が高いとされる『尊卑分脈』にせよ、山鹿系図の作成は麻生氏が室町幕府の奉公衆に列せられた後、その申告をもとに記されたと考えられている。それもあって私は時家の官職が左衛門尉であるとする尊卑分脈の註記はいささか疑わしく思っている。
当時の武士の官職は私称や世襲ではなく、一代限りの成功(じょうごう:売官)によるものがほとんどだが、家格とまったく無縁ではない。大武士団の惣領レベルである左衛門尉を名乗るだけの家格や実力を、はたしてこの頃の山鹿氏はもっていただろうか。
まして、江戸以降の編纂物のように山鹿時家を貴種とする記述を私は信じることができない。

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