妻は極度の恐がり屋である。定年後、毎日夫婦二人でテレビドラマを見るはめになってしまったのだが、事件・事故・暴力・戦争シーンはNG。いきおいラブロマンスや詐欺・裁判ものに視聴がかたよる。おかげで「莫大な財産をめぐる相克」という古典的テーマが現在も生きていることを知ることができた。
今も昔も財産管理はたいへんだ。信頼できる管理者がいなければいつ詐欺・横領にあうかわかったものではない(我が家にそんなものはないから安心だが)。
坂東武士の鑑とされる畠山重忠は、「よき管理人がいないなら苦労が増えるだけ。それなら恩賞地などもらわない方がいい」と言ったという。識字率が低い中世、荘園領主たちは信頼できる管理者を見いだすのには大いに苦労したようだ。
旧遠賀郡は平家滅亡後に没官領となり、とりあえず関東御領として源頼朝が地頭になり、やがて有力御家人たちに恩賞地を下げ渡す。無論頼朝や有力御家人たちが鎌倉から下向して、直接年貢の徴収を行うことはない。京都で下級官人をスカウトするか、文字が読める御家人を鎌倉から派遣するか(滅多にいないが)、あるいはかつての平家家人を現地雇用するかして代理人(地頭代)に領地を管理させる。しかし中世の武士は誇り高く気が荒い。土地の権益も入り組んでおり、各人が努力すればするほど隣との紛争は激しくなるし、努力せずに年貢上納がうまくいかなければ、京都の公家たちから「うちの年貢がまだ届いてへん。御家人という輩が妨害してるんやと。鎌倉は何してんのや?」と幕府にクレームが入り、京都の守護者たらんとする頼朝から「何とかせよ」と譴責される。このような状況下で平家最大与党の一人、山鹿秀遠跡の管理を任されたのが一品房昌寛である。
一品房昌寛は頼朝の重要な側近文士(右筆)の一人である。源範頼の九州派遣軍や平泉攻略軍に名を連ね、文官としては草創期の幕府の外交官として後白河政権との交渉に当たった。『吾妻鏡』には「御祈師」とあるから、建物や軍陣の方角(風水のようなもの)に詳しく、頼朝一家の屋敷の建設に関わる記事が多い。成勝寺執行を務めているので僧体の御家人であったろう。
「一品房」を名乗るがさして高い身分ではない。『尊卑分脈』は高階氏の出身、宇都宮氏の縁者であったとする。あるいは内裏の隣で貴重な本を筆写収蔵していた「一本御書所」の職員を履歴とするのかもしれない。 『平治物語』には後白河は御所の隣の「一品(本)御書所」に幽閉されたとあり、小説家なら「頼朝-昌寛-後白河」の接点を見出すだろう。
しかしこの有能な管理人には、公家との交渉や大仏開眼、平泉討伐の院宣取得などあまりに多忙で、現地で業務をこなす時間はほとんどなかった。「麻生系図(竪系図)」には筑前国山鹿庄に下向していた宇都宮(山鹿)家政を養子として所領を譲ったとある。
建久6年(1195)を最後に昌寛は史料から姿を消すが、彼の一族に関する記録は娘の事績以外見いだせない。
昌寛の娘は第二代将軍源頼家の側室となり、三男栄実、四男禅暁を産んだ。頼家の横死後、三浦義村の弟三浦胤義と再婚したが、胤義は承久の乱で上皇側の主力として奮戦し敗れて自害した。栄実、禅暁も後に北条氏への謀反を企てて敗死したとされる。その後、昌寛の娘がどんな人生を歩んだかを語る史料はないが、明るかったとは思えない。
昌寛領の粥田庄・山鹿庄は、頼朝の妻政子から高野山金剛三昧院を経由して北条得宗家に引き継がれる。昌寛から所領を譲られたという山鹿氏が、その時どのような活動をしたかははっきりしない。同氏の庶家麻生氏が執権時頼らから地頭代職の安堵を受けた下文が三通残るのみである。

ところが昭和二年(一九二七)芦屋の法輪寺の西の谷から、高さ14cmの銅製経筒が発見された。鎌倉時代末期の徳治三年(一三〇八)の銘文で、「母なる清浄覚尼が関東御曹司千寿御前の百日忌の供養として妙法蓮華経を写して納めた」とある。
千寿御前とは、将軍頼家の子で非業の最後を遂げた栄実のことである。
没後百年近い時を超えて千寿丸(栄実)を供養した人が誰であったのか知るすべはないが、一品房昌寛の所領管理者は、まちがいなく昌寛の縁者を守り通したのである。
武者の世の鎌倉時代にも心温かいドラマは存在するらしい。
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